2023年1月10日火曜日

全ての出来事には意味がある (2023-01-10)

 今日も和賀心学 (2023-01-10)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


今朝は、全ての出来事には意味がある、と頂いた。しかしただ漫然と過ごしていたのではその意味は中々分からない。信心してお取次ぎを頂く事によってその出来事の意味合いがクッキリと浮かび上がる。その意味が意義あるものとして認識される様になる。神様と同じ方向を向いていなければ意義が無くなる。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 334頁)


ビデオ: https://youtu.be/nNNQulNFV5I

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/01-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-01-10.mp3


合掌

中原博信

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御理解 第47節




祈れ薬れにすればおかげも早いが、

薬れ祈れにするからおかげにならぬ




病気の時は医者、死んだら坊主、

果たして医者と坊主でよかろうか




人間がいよいよの時、

どんな無信心者でも何かに縋らなければおれぬと言う




その縋らなければおれぬ心の比重の相違が

祈れ薬れになったり、薬れ祈れになるのである




『薬れ祈れにするからおかげにならぬ』ということは、

病気が治らぬということではない




次の高橋博志先生のおことばで知ることが出来る




「お取次を頂いておきてくることは、

よいことわるいことみなよい




お取次を頂かずしておきてくることは、

よいことわるいことみなわるい」




御取次の働き、その作用の微妙さが教えられている




そのお取次ぎの作用の微妙さ、と言う所ですね、

神様が御働き下さる、




なる程、信心はせぬでもおかげはやってある、

と言われる誰でも受けられるおかげ、




やってあると言われるおかげと、

その信心してお取次ぎを頂いて初めて頂けれるおかげ、




と言うのは、やっぱり違うと言う事でしょうね




お取次ぎを頂いて起きて来る事、

そこには神様の不思議な働きが現れる、




それこそ今朝頂きますのは、

全ての出来事には意味が有る、と




私どもの身の上に起きて来る事柄、

その全ての事柄には意味が有るのだと




これが、今朝頂きますこのミ御理解から致しますと、

誰にでもそれこそ、信心はせぬでもおかげはやってある、




と言うおかげ、そのお取次ぎを頂こうが、頂くまいが、

信心をしようが、しまいが、私どもには様々な事が起こって来る、




その様々な事、それら全てが、なる程意味が有る事だ、

と言う事にもなりますけれども、




その意味の有り様が、もう一つ違うと言うのでしょうかね、

意味する所が何かしら異なって居ると言う感じが致しますね、




そこに、御道の信心をして、あるいはお取次ぎを頂いて、

その後に起こって来る出来事、




その全ての出来事が持つ意味合いと言うものですね、

なる程天地の御陽光と言うのでしょうか、




太陽は誰にでも照らされている、

雨は、誰の身の上にでも降って来る、




しかしその雨でも、例えば何と言いましょうかね、

お百姓さんなどがお米を作る、その時に、




今、雨が降って欲しいと言う時期と、

今は雨が降っては困ると言う時期がやはり有りますね、




そのいつもかつも雨が降って居るのが良い、

と言うのでは有りませんね、




その時節と言うのでしょうかね、

今、雨が欲しい、今は欲しくない、




なる程同じ天地のお恵みですけれども、

やはりお米ならお米、食物なら食物を育てる上において、




その降って欲しい時期、降って欲しくない時期と言うものは、

やはり有るものですね、




その辺の所をうまく塩梅して下さる、

と言うのでしょうかね、




それこそ信心して居れば、神様のおかげを頂いて居れば、

神様が私ども人間に都合を合わせて下さる、




と言うのでしょうかね、

そう言う御働きが有るものだと言う事ですね




なる程同じ様な事が起きて来る、

けれども、それが、私どもがどこに焦点を定めておるか、




と言う事だと思いますね、

お米を作る為に、今は雨が欲しい、




もしもそれが、お米を作っていない人にとっては、

雨が降らない方が良い、と言う人も居るでしょうね、




そこに、さあどちらに合わせて神様が雨を降らせて下さるのか、

と言う事になると思いますね、




やはりその信心して居る人、

お取次ぎを頂いて神様にお願いをした人、




その人に合わせて下さるのではないでしょうかね、

そう言うおかげが頂けれると、




お取次ぎを頂く働きの微妙さと言う所は、

そう言う所にも有るように思いますね、




私どもの身の上に起きて来る一切の出来事、

それには意味が有ると、




意味が有るけれども、

その意味が有る事を、何と言いましょうかね




例えば、もう一つ頂きますのは、

それこそ全ての出来事、




それは神様が私どもの心を育てよう育てようとして、

起こして下さっているのだと言う事ですね、




ですからもしも私どもが、心を育てようと言う、

その意識と言うのでしょう、が無いならば、




寧ろ邪魔になると言うのか、

災いのものだと思ってしまいますよね、




私どもが、神様と同じように、

神様が心を育てようと言う、その神様の思いを汲んでと言うのか、




同じように、私どももやはり自らの心を育てようと、

同じ方向に向いた時に初めて、その出来事がなる程意味が有る、




その出来事によって心を育てる事が出来る、

と言う事になりますね、




なる程意味が有るその意味を、

意味たらしめる、意義有るものとして頂いて行く、




その為には、私どもがやっぱり

神様が願って居られる所のものをよくよく汲み取って、




それに添うて行く心の持ち様が

要るのではないでしょうかね




そこに初めて、全ての出来事が意味が有る事として、

意義が出て来るのではないでしょうかね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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