2023年1月6日金曜日

真の助かりとはどう言う中にあっても安心のおかげを頂けること (2023-01-06)

 今日も和賀心学 (2023-01-06)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


信心の最大の眼目は真の助かりを求める事にある。今朝はその助かりとは安心の大みかげを頂く事だと頂いた。いつ如何なる、どう言う中にあっても安心した心で居れたら、なる程そこには助かりが有る。先ずはこの師匠にお取次ぎを願えば安心と言う御縁を頂く事。更に神愛の懐の中にある吾の実感を頂く事。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 142頁)


ビデオ: https://youtu.be/NXj2Orxn8Hk

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/01-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-01-06.mp3


合掌

中原博信

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御神訓




過ぎたることを思い出して

腹立て苦をすなよ




養素拝山




全てのことを信心の養素となし、

全てのことに御礼の言えれる信心により、




現在を喜び、

未来をも楽しめる信心が出来てくる




現在を喜び、未来をも楽しめる信心、

これこそ正に助かった心の状態と言えるのではないでしょうかね、




人が助かると言う事、信心をさせて頂く、

それは勿論おかげを頂く事であり、




自らの心を磨くと言う事でありますけれども、

その最大の目的と言うのでしょうか、




先ず第一は、

やはり助かると言う事に有ると思いますね、




例えば、どんなおかげを頂いても、心がイライラモヤモヤであったり、

心が育てばイライラモヤモヤは無いのでしょうけれども、




心が育つ、例えば大きな心になろうとする、

美しい心になろうとする、




それでも心にイライラモヤモヤですか、が有ったのでは、

助かって居るとは言えませんね、




尤も助かると言う事、その内容には、心が育つ、

と言う事が含まれるとは思いますけれどもね、




勿論人が助かる、

その為には神様のおかげを頂かねばなりません、




それこそ出来ない所を、出来させて頂く様な、

不可能が可能となる様な神様のおかげも頂いて行く、




そしてまた、自らの心を愈々磨き、愈々大きな心に、

美しい心にならせて頂く、それこそ天地日月の心を目指す、




和らぎ賀ぶ和賀心を目指す、と言う事でしょうけれども、

そのやはり信心の一大目的である、助かる、と言う事ですね、




今朝はその、助かると言う事は、

安心の大みかげを頂く事だ、と頂きました、




なる程確かにそうですね、心が安心して居れる、

その状態が、助かった状態だと思いますね、




もし心に安心が無い、不安やイライラや心配が有る、

それで助かって居るとは言えませんからね、




どんな事が起こって来ても、何があろうと、

どんと安心して居れる心、




その安心を頂くと言う事が、助かりと言う事の一つ、

と言うのでしょうか、全部かどうかは分かりませんけれども、




少なくとも、その安心の心を頂かなければ、

助かって居れる心は頂けませんね、




ではどうやったらその安心の心を頂けれるのか、

その一つには、やはり私は師匠大坪総一郎師と出会わせて頂き、




そして先ずはこの親先生にお届けして、

そうすれば安心だ、と言う安心を頂いたように思いますね、




言わばどう言う事が起こって来ても、

この親先生にお取次ぎを願い、




神様にお取次ぎをして頂き、

そうすれば、もうそこから神様の御働きが頂けれる、




言わば、まさかの折には、この親先生にお願いして、

それで安心が頂けれる、




と言う安心を、先ずは頂いたように思いますね、




何かの時には、この親先生にお願いしてもらえば、

お願いしさえすれば、それで神様がそれこそ何とかして下さる、




と言う安心、その親先生にお取次ぎを頂く事による安心、

ある意味親先生から祈られて居る、親先生から守って頂いて居る、




と言うのでしょうかね、とにかく何か起こったら、

この親先生にお願いすれば安心だ、




と言う安心を先ずは頂いたように思いますね、




ところが、親先生にお願いすれば安心だ、と言うその安心では、

その親先生がお国替をされたり、神上がりされたら、




お願いする人が居られませんから、また不安になりますね、

ですから次にはそれこそ真実の神様を頂くと言うのでしょうかね、




たとえ親先生が居られなくとも、

神様のお守りを頂いて居る、と言う実感を頂く事ですね、




やはり神様から守られて居る、

と言うその実感が、安心に繋がるのだと思いますね、




いつ如何なるどう言う中にあっても、

神様から守って下さって居られる、神様がお守り下さって居る、




言わばその神愛の中に庇われ、

神愛の中に居らせて頂いて居る、と言うのでしょうかね、




神様の愛の中に包まれて居ると言う実感

いつ、どう言う中にあってでも、




神様の御働きだと、神様から守られて居る私だ、

と言うその実感、それが信心の体験を通して頂けれる、




御教えを頂き、御教えを行じる事によって、

またおかげを頂く事によって、




その、神様から守られている、

神様の懐の中にある、と言う実感ですね、




それが頂けた時に、頂けれるようになった時に、

安心の心が頂けれるのではないでしょうかね、




なる程信心して、その時その時におかげを頂く、

あるいは自分の心を育てる事に精進させて頂く、




それでも、もしそこに神様から守られている、

神様の懐の中にあると言う実感が無いならば、安心は頂けませんね、




ただ、心を磨いて居る、おかげを頂いて居る、

と言うだけでは安心では有りませんね、




そのおかげを頂き、心を磨き、そして更に、

神様の懐の中に、それこそ居らせて頂いて居る、




と言うその実感が有る時に、

安心の心が頂けれるのではないでしょうかね、




その安心のおかげを頂く為には、

やはりおかげを頂かねばなりません、




心を育てて行かねばなりません、

そう言う事が相まって行く中に、




神様と共に同行二人と言うのでしょうか、

そう言う実感も頂けて来るのでしょう、




様々な信心体験を通して、

神様のそれこそ神愛の中に居る私だ、




と言うその実感が頂けれる時、

真実の安心と言うのが頂けれるのではないでしょうかね、




師匠が教えて下さる、一切が神愛だ、

とこれなどはそれこそ安心の最たるものだと思いますね、




そしてその安心が頂けれる時に初めて、

和らいだ、真実の和らぐ心が頂けれる、




そしてまたそこに、

神様に守られていると言う賀びも湧いて来る、




真実の意味においての和らぎ賀ぶ和賀心と言うのも、

頂けれるのではないでしょうかね、




その私どもの助かり、

それは安心の大みかげを頂く事だと言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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