2023年1月15日日曜日

天地金乃神様と人間氏子とが有難い心を、喜びを、楽しみをシェアし合う世界 (2023-01-15)

 今日も和賀心学 (2023-01-15)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


地獄、極楽、合楽。極楽のもう一つ向こうの世界が合楽世界。天地金乃神様と人間氏子とが合い楽しみ合い拝み合う世界、いわゆる神も助かり氏子も立ち行く世界へと導き入れるのが師匠大坪総一郎師の願いであり、神様の願いでもある。今風には神様と氏子とが有難い心を、喜びを、楽しみをシェアし合う世界。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 326頁)


ビデオ: https://youtu.be/RznuhpwzVtM

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/01-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-01-15.mp3


合掌

中原博信

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御理解 第44節




狐狸でさえ、

神にまつられることを喜ぶというではないか




人は万物の霊長なれば、

死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ




金光大神の道は、

凡夫の身そのままに神に至る道なり




出家することもなく、修道院に入ることもなく、

人間を幸福にせずにはおかんという神愛に触れながら




その親神の思いにふれる時、

いよいよ神の道をたどらずにおられない




神に祀られると、

神になると、




師匠は、生神を目指しての精進が真の信心だと、

言う様な事を仰って居られます、教えて下さいますね、




また師匠が目指された所、と言うのでしょうかね、

それこそ氏子と神様が合い楽しみ、拝み合う世界、




そこを目指されたと、

目指して居られたと、言うのでしょうかね、




今朝はそのいわゆる最近流行りの、

共有とか、シェアするとか言うのが有りますね、




そう言う事を、成行きの中で頂くのですけれども、

いわゆるシェアする、いわゆる共有する、




誰と共有するのか、人間同士の共有は、

勿論、共励会と言うのが有りますけれども、




これは天地金乃神様と、私ども人間との間で

分かち合う、と言うのでしょうかね、




喜びを分かち合う、あるいは苦しみなら苦しみも分かち合う、

と言う、神様と人間氏子との間での共有と言う事なのですね、




よく同行二人、神様と同行二人と言われたり、

神様と二人三脚と表現される事が有りますね、




そう言う事の表現の一つだと思うのですけれども、

私どもの有難い、あるいは喜びと言うものを神様と共有する、




また神様の喜び、

をまた私どもと共有させて下さる、




いわゆる神様の喜びが照り返って来て、私どもがまた有難くなる、

と言う、そう言う事だろうと思うのですね、




師匠大坪総一郎師が、

その私どもを導き入れようとされた世界、




それは神様と人間氏子とが合い楽しみ合い、

それこそ喜び合い、そして拝み合う世界、




いわゆる合楽世界だと、言う事なのですね、




地獄、極楽と申しますけれども、

その地獄の釜を踏み抜いて、そして極楽が有り、




そしてまたその極楽のもう一つ向こうにある世界が、

合楽世界、と言う事になるのでしょうかね、




極楽と言うのは、人間が、ああ極楽だあ、

お風呂に入って、ああ極楽だ、と言う人間だけの世界ですね、




それが、神様と共有された世界と言うのでしょうかね、

神も喜び、氏子も喜び、金光大神も喜び、と言われる様な、




神様と人間私どもとが合い楽しみ、拝み合う世界、

いわゆる合楽世界ですね、




そこに入る事、そこに合楽世界に生きる事を、

標榜されたと言うのでしょうかね、




目指して居られるわけですね、本当を言うと、

その皆んなにその合楽世界に住んでもらいたいと、




神様と氏子とが合い楽しみ、合い拝み合う世界、

そう言う世界に住んでもらいたい、




と言うのが、師匠大坪総一郎師の本音ですね、

これは神様の本音でもあろうと思いますね、




ただ、人間氏子がおかげを頂いて、ああ有難い、

と人間が有難いと言うだけの世界ではなく、




そこからもう一歩踏み込んで、神様も有難いと、

神様も楽しんで下さり、神様も喜んで下さる世界




その合楽世界に入るには、どうしたらよいのか、

よく御理解に有ります、




これは合楽と言う地名ですけれども、

その地名以上に込められた神様の願いが有る、と言うわけですね、




そしてその合楽に至る手前の所に、発心川と言うのが有ります、

小さな川ですけれども、その発心川を越えると言うのでしょうかね、




いわゆる何かを発心しなければ、その発心川には、

何と言いましょうか、発心川を渡る事は出来ないと、




その越える事は出来ない、いわゆる人間が、有難い、

と喜んで居る世界からもう一つ、その越えた、




神様も喜んで下さる、神様も有難いと言って下さる、

また神様も安心して下さる世界、そこに至る為には、




何かを発心して、その川を越えなければならない、

と言うのですね、




でその何を発心するのか、それはいわゆる人間が、

人間の側から、神様の側へと移ると言うのでしょうかね、




そう言うそこに発心されなければならないと、

いつまでも人間の側に居ると言うのでしょうか、




それは結局、人間の側に居ると言う事は、

いつまでも神様のおかげを勿論頂かねばなりませんけれども、




そこ止まり、自分が助けてもらう、自分の助かりを願う、

そこ止まりだと、




そこ止まりの時には、合楽世界には中々入れない、




合楽世界に入る為には、それこそ助けられる身から、

助かる、自分が助かる、そしてそこから更に人を助ける身になる、




言わば、人の助かりを願う私になる、




そう言う助けられる世界から、今度は助ける世界に、

心が発心された時に、それこそ発心川を越える事が出来る、




言わば、合楽世界への入口を通る事になるわけですね、




そして自分のみの助かりを願う世界から、人様の助かりを願う世界へ、

何と言いましょうかね、私どもの心が育った時に初めて、




その合楽世界、神様と私どもとが合い楽しみ合い、拝み合う世界、

にも入る事が出来る、




いわゆる極楽世界から、合楽世界へ入る事が出来る、

と言う事なのですね、




どうでも私どもの心の中に、勿論自らの助かりを求める、

そしてそこから更に、人様が助かって下さる事の為の信心、




と言う所に、発心される、そこに初めて、

合楽世界へ入る事が許される、と言う事になりますね




助けられる身から、助ける身に変わって行く、

と言うのか、その発心が要ると言う事なのですね、




そして神様が、それを待って居られる、師匠も勿論、

人々がそこに、助けられる身から、助ける身になる、




そう言う事を願って居られると言う事ですね、

そこに初めて真実の意味においての、




有難いと言うものを、喜びと言うものを、

拝み合うと言うものを、




神様と共に共有し合う事が出来る、

ことになるのではないでしょうかね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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