2023年1月25日水曜日

神様を使う信心から、神様に使うて頂ける私になる信心を目指す (2023-01-25)

 今日も和賀心学 (2023-01-25)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


とかく私どもは神様を便利屋さんの様に思うて、困った時の神頼み的信心になりがちだが、今朝は、神様を使う信心から、神様に使うて頂ける私になる信心を目指せと頂いた。我が子が、親の手伝いが出来るような子に成長してくれよとの神様の願いを感じさせて頂く。親の手伝いが出来る様になれば親もまた楽。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 249頁)


ビデオ: https://youtu.be/AE-_gh4zIJQ

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/01-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-01-25.mp3


合掌

中原博信

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御理解 第19節




金光大神は形がのうなったら、

来てくれと言う所へ行ってやる




時間空間を問わない自由無碍の働きを現わして下さるのであるが、

私共は一歩でも金光大神に近づかせて頂かねばなりません




金光大神も楽、

私どももおかげの早道でもある




それには、ぎりぎりの自分を発見し、

そこからの出発であり、一念発起でなければなりません




「四角四面の鏡の中に入れられた蝦蟇は、

自分のきたなさ、あさましさに苦しみ、タラリタラリと脂を流した、




其の脂を練り上げたものが切傷の特効薬となる」

これはガマの膏売りの口上である




私共も教えの鏡をみたら、自分のきたなさ、あさましさが

うつし出されてくるのである、それが自らの発見ともなるのである




師匠は、

自らの発見、と教えて下さいます、




その自らの発見は何でなされるか、

やはりそれは成行きですね、




私どもの身の上に起こって来る様々な出来事、

その出来事が私どもの心の写し鏡であると、




私どもの心の小ささ、そしてまたその浅ましさ、

それが成行きとなって、私どもの身の上に起こって来る。




と言うのでしょうかね、ですから、

やはり私どもの、心一つですべてをつくる、




と師匠は教えて下さいますけれども、

やはり私どもの心一つで、私どもがどう言う世界に住んで居るか、




と言う事にもなるのではないでしょうかね、

今朝頂きますのは、




私どもはとかく神様を使おうと致します、

ああして下さい、こうして下さい、と




やっぱり神様とは使うもの、と言うのでしょうかね、お願いするもの、

その神様を便利屋の様に使う、と言う表現が有りますが、




どうしてもそこからもう一歩先に

踏み込めない所が有りますね、




今朝はその、師匠がよく仰って居られました、神様を使う身から、

神様から使われる私に変わって行かなくてはならないと、




それは神様の願いでもあろうと思うのですね、




例えば、子供が居る、その子供がやっぱり親に頼み事をする、

表現を変えれば、子供は親を使おうとするものですけれども、




何かにつけ、親に頼む、それが段々大きくなって、

自分でも出来るようになったら、今度は自分でする、




またそれ以上に、親の手伝いを出来るようになりますね、

言わば神様の願いとしては、




子供が一人前に成長して、親の手伝いが出来るようになる、

その事をまた願って居られるのだと言う事なのですね、




何もああして欲しい、こうして欲しいと願うわけではない、

けれども、子供がきちっと正しく成長して、




親の手伝いも出来るように、

また、これは私に手伝わせて下さい、と子供が言ってくれる様な、




そういう子供に育って欲しいと願うのが、

やはり親心と言うものではないでしょうかね、




神様もやっぱり、

私ども人間氏子に、




それこそ子供の方から、何か手伝わせて下さい、

と言ってくれる様な子供であって欲しいと、




そしてそれこそ神様が、それならばこの事をしてくれと、

神様から手伝いを頼まれる様な私どもでもあらねばならないと、




それこそよくお給仕の話をして下さいましたね、

お給仕の人が例えば、手もそれこそ土が付いて汚れていたり、




髪ははボウボウでフケが一杯落ちている様な

そういう人が、お給仕をさせて下さい、と言われても、




こちらは少し躊躇すると、小綺麗に清潔そうにした人が、

お給仕をさせて下さい、と言われれば、




喜んでもして貰うであろうと、

ですから私どもが、神様にお役に立たせて下さい、




私を使うて下さい、と言って来ても、

なる程この氏子なら使っても大丈夫だなと、




例えば、どこそこに何と言いましょうかね、

買い物の御用を頼むと、買い物に言ってくれと、




そしてお金を渡すと、

もしその子がそのお金を持ってどっかへ行ってしまう、




あるいは自分の好きなものだけを買ってしまう、

と言う様な事であったならば、




とてもお金を預けて、買い物を頼むと言う事は出来ませんね、

やっぱり、使うて下さい、




神様のお手伝いがしたい、と言うからには、

神様から信用される私どもでなければならない、




神様から信用して頂く、そういう子供でなければ、

とても親としても使いようが無い、と言う事になりますね、




ですから、親の役に立ちたい、親のお手伝いをしたい、

と思うならば、やっぱり親からも信頼してもらえれる様な、




親からも安心してもらえる様な、

私どもに育っていなければならない、と言う事になりますね、




親の御用に立ちたい、親のお手伝いをしたい、

と言う言わば神様を使う信心から、神様から使われる信心を目指す、




そしてその神様から使われる信心を目指すと言う所には、

やっぱり、神様から信用される私どもでなければならない、




と言う事に繋がって来ますね、

そこに初めて、初めてではないでしょうけれども、




そこに一つ、やはり御神徳を頂く、神様の御信用を頂く、

と言う事が、神様に使うて貰う上からも大切ですね、




為にも、御神徳を頂く、そういう頂こうと言う心を起こす為にも、

先ずは神様に使うて頂きたい、




神様を使う信心から、

神様に使われる信心を目指す、




為には、今のこんな汚い心では、こんな浅ましい心では

使うてもらえないだろうな、




やっぱり、神様から信用してもらえれる様な私になって初めて、

神様に使うて頂けれる、と言う事になりますね、




どうでもその神様から使うて頂けれる様な、

また神様、使うて下さい、神様のお役に立ちたい、




と言う、そう言う心が芽生えて来る様な、

信心の心のお育てを頂きたいものですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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