2023年1月23日月曜日

黙って治めれば治まる、黙って治めるとは己の我を外すこと (2023-01-23)

 今日も和賀心学 (2023-01-23)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


師匠大坪総一郎師の基本的な御教えの一つに、黙って治めると言うのが有る。治めると言う漢字は三水偏にム口と書いてある、従って流れ来たるものを無口で黙って治めれば、治まると言うのである。しかし心の中はイライラモヤモヤと言う事もある。今朝は、黙って治めるとは己の我を外すこと、と頂いた。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 198頁)


ビデオ: https://youtu.be/5gW524W4Kf8

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/01-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-01-23.mp3


合掌

中原博信

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御理解 第2節




先の世までも持ってゆかれ、

子孫までも残るものは神徳じゃ




神徳は、信心すればだれでも受けることができる

みてる(尽きる)ということがない




すべてが神さまの御働きの中にあることと信ずればこそ、

悪く言われても、笑われても、叩かれても




又、どのような場合にも

人情を捨て神情一つで受けとめてゆけるのです




ここで『神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る』

と仰せられたのは、このような信心を言われたものと思います




所謂「信ずればなり」であります




どの様な場合にも、人情を捨て、と有ります、

これは我情我欲と言う事でしょうから、




どの様な場合でも、我情我欲を捨て、

と言う事にも繋がるのではないでしょうかね




師匠の御教えの基本的な御教えの一つに、

黙って治める、と言うのが有ります、




黙って治める、それは治めると言う字は、

漢字で三水偏にム口と書いて有りますね、




ですからその流れ来たるもの、三水偏ですね、

これを無口で治める、いわゆる黙って治めるわけですね、




そうすれば、自ずから治まる、

と言う事になると、




あれこれ口を出したり、ここは一言言っとかなければ、と言って

一言口を出す、そうする所に、治まる問題も治まらなくなる、




とにかく黙って流れ来たるものを、黙って無口で治めておれば、

それが治まる事になる、と言う御教えですね、




これなど、黙って治めると言うその、成行きを、

ここは一つ何か言いたい、と言う所をまた黙って治める、




その成行きを黙って治めて行く、

と言うのでしょうかね、




成行きを受けて、受けて、受け貫く、

と言う様な事にも繋がるのだと思いますね




その成行きを受けると言う事の、

基本的な心構えでもあろうと思います、




その、黙って治める、

今日はその黙って治めると言う事の意味合いを、




もう一つの意味合いが、重要な意味合いが有る事を、

分からせて頂いたのですけれども、




今までは師匠が、ただその漢字の治めると言う字、

三水偏に、ム、口と書いてある、




これで説かれる所だけしか、頂いていなかったのですね、




何でもかんでも無口で治めるのかと思っておりましたら、

ある研修の時に、そんな事を黙って居ってどうする、




と、黙っていちゃいけない、

と言う様な事を、師匠が仰って居られた事が有りました、




ですから黙って治めてはいけない事も、

中には有るのですね、




ではどこが黙って治めて、

どこが黙って治めてはならないとこなのか、




ただ三水偏にム口で治める、だから、それが治まる、

と言う所からは、説明がつかなかったのですね、




ところが今朝頂きますのは、

それが見事に説明がつくように思います、




心の中が一つスッキリしました、




それは、黙って治める、と言うその姿は、

自分の我を治めた姿だと、言う事ですね、




我を無くした姿、あるいは我を無くそうとする姿だと、

言う事でも有りますね、




何か一言言いたい、これはやはり我が出ておるからですね、

自分の我なわけです、




何か一言言い返す、そして一言言わなければ気が済まない、

と言うこれは、自分の我が出ているのです、




その黙って治めると言う事は、ただム口になる、

勿論無口になると言う事、その無口になると言う事は、




形の上からすれば無口だけれども、私どもの心の中を見てみたら、

それは私の我を治めると言う事になるわけですね、




その黙って治めなさい、と言われるから、

心の中にはイライラモヤモヤ、何か一言言いたい、




という一言言いたいと言うものを持ちながらでも、

黙って治めろと言われるから、黙って治める、




と言う段階も勿論有りますね、

その形の上での黙って治めるを、形の上で行じているわけです、




これでは本当の黙って治めるにはなっていないですね、

心の中はやっぱりイライラモヤモヤが残って居るわけですからね、




そこをスッキリ、形の上においても、

心の上においても黙って治める、




と言う事は、私どものその我の心、ここは一言言いたい、

言わなければ気が済まないと言うその我情ですね、




その我を取り外す、外してしまう、

取り除くと言うのでしょうかね、




その自分の我を外す稽古が、黙って治める、

と言う形となって現れるわけですね、




その時に初めて本当の意味においての、

自らの心も治まると言う事になりますね、




無口になれば治まる、これは対外的なと言うのか、

形の上の事ですね、一言言い返すから喧嘩になる、




なる程無口でおれば喧嘩にはならない、喧嘩にはならないけれども、

私の心の中はまだイライラモヤモヤして居る、




形の上においては治まるけれども、

私の心の中はまだ治まっていない、と言う状態が有りますね、




ここを、自らの心から、その一言言いたいと言う、これは我だと、

この我を外そうとした所に、勿論黙って居れる、




そしてまた自らの心も治まる、と言う事になりますね

勿論、形の上においても治まって来ますね、




ですからその黙って治めると言う事は、

そう教えて頂くから、そうする、と言う事も有りましょうけれども、




そこからもう一歩踏み込んで、

私の我を取るのだと、我を治めるのだと、




そこに初めて無口になり、治まる世界が有る、

形の上においても、自らの心の上においても治まるわけですね、




黙って治めると言うのは、自らの我を取る稽古だと、

言う事になりますね、




ですからもしそれが、神心と言う事になれば、

いわゆる我ではない心が湧いて来た時には、




それは勿論言わねばらない、と言う事にもなりますね、

そう言う時も有ると言う事です、




何もかも黙って治めると言う事ではない、

それは我を取る稽古としての、黙って治めるなのだと、




黙って治めると言う事は、

自らの我を外すと言う事だと言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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