今日も和賀心学 (2023-01-19)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
何の為に信心をするのか、概してご利益を求めての信心が多い。楽に助かりたいと貰い水的助かりに終始してしまう。自らが井戸を掘りこんこんと湧き出る水源を得ての助かりでなければ真の助かりは得られない。まずは真の助かりを求める心が育つこと、更にその真の助かりはお金では買えないことを悟ること。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 356頁)
ビデオ: https://youtu.be/N8SVpSzO40k
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/01-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-01-19.mp3
合掌
中原博信
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御理解 第54節
徳のないうちは心配する
神徳を受ければ心配はない
まず御神徳を受けたい
ある人は「金光教の信心は一切をおかげにしていく道だ」と説かれた
合楽では「一切をお徳にしていく道」を教える
先ずは『一切神愛論』のマスターから
信心をする、何の為に信心をするのか、
と問われる事が有りますね
大概はやはりおかげが欲しい、そのおかげ目当て、
いわゆるご利益目当ての信心と言うのが大概だと思いますね、
私どもの願いを叶えて欲しい、
あるいは今抱えている困った事から抜け出したい、
これも、抜け出したいと言う願いを、叶えてもらいたい、
と言うわけですから、
結局、自分の願い事を叶えてもらいたい、
と言う事になりますね、そして、そこで止まってしまう、
その願い事を叶えて欲しいと言うのは、
何故願い事を叶えて欲しいのか、
その願い事を叶えて欲しい願い事が叶えば、
心が楽になると言うのでしょうかね、
助かると言うのでしょうかね、
言わば助けて欲しい、と言う事だと思うのですね、
何かに縋る、助けてもらいたいからと言って、
いわゆる信心に縋ると言う事ですけれども、
助けて欲しい、助かりたいと言いながら、
そのいわゆる本当に助かりたい、真実に助かりたい、
と言う所までは思っていない事が多いですね、
ただ、ご利益を頂けば、自分の願い通りになれば、それで良い、
それで助かる、と言う事ですね、
その今の抱えている問題から抜け出せば、それで良い、
と言う、何と言いましょうかね、
いわゆる困った時の神頼みと言う、
その困った時に、刹那的にと言いましょうか、
一時的におかげを頂く、そして助かる、
と言う助かり方から、
よく例えられますけれども、
お腹の空いている人におにぎりを与えて助ける、
お腹が空いている人は、
やっぱりおにぎりを頂いて助かりますね、
教祖様に、神様が、それこそ願う氏子におかげを授け、
理解申して聞かせ、と言われたその、
願う氏子におかげを授け、と言うのが、
おにぎりを渡す様な助け方ではないでしょうかね、
そこから更に、理解申して聞かせと、
またおにぎりを食べて、その時はお腹一杯になったとしても、
また何時間か経つと、またお腹が空いて来るわけですから、
また貰いに来なければならない、
それを、自分でお米を作って、自分で収穫が出来るようになる、
そうなれば、何と言いますかね、
自分でその自給自足が出来るようになる、と言うのでしょうかね、
そう言う事が、いわゆる本当の助かり、
と言う事になるのだろうと思うのですね、
いわゆる一時的なおかげを頂く、
一時的に自分の思い通りに事が運ぶ、そこに助かりを見い出す、
と言う助かりも大切ですけれども、
そこから更に、どう言う事があっても、
どう言う中にあっても助かって居れる心を頂く、
お米の作り方、そしてまたご飯の炊き方、
そう言うものをいわゆる勉強すると言うのでしょうかね、
そう言う所まで来た時に初めて、
真実の助かりと言うものが有るのではないでしょうかね、
その真実の助かりを得たい、と言う願いを、
先ずは持たねばならないと言う事が分かりますね、
大概、そのおにぎりが頂きたいと、
おにぎりが欲しいと言う所で終わるものですね、
自分で田を耕し、お米を作り、
またその作ったお米を炊いてご飯にしよう、
と言うそう言う作業は面倒臭いからいいやと、
もうとにかく誰か作って、あとは食べるだけ、
と言う食べるとこだけの、
口に入れるところだけのおにぎりを貰えば、それで良いと、
言う生き方の方が多いのではないでしょうかね、
そこから、自らが、
それこそ身凌ぎの出来る信心と言われますけれども、
自らが助かって行けれる信心
そこにはやはり手間暇はかかりますね、
手間暇はかかりますけれども、真実自ら助かって行けれる、
そう言う助かりをまず求めねばなりませんね、
一時的な助かりを得るのみに止まる心から、
それこそ未来永劫でも助かって行けれる様な、
そう言う助かり方をしたいと言う、
真実の助かりを求める心が育って来なければなりませんね、
そしてその真実の助かり、真の助かり、
いつもかつもおにぎりを貰って、有難い、
おにぎりを貰って助かった、と言う助かり方ではなく、
そう言う助かり方を求めるのではなく、
自らが田を耕して、お米を収穫して、
そして自らが助かって行く様な、
そこまで来たら、勿論、作った、出来上がったお米を、
人様にも分け与える事が出来るようになるわけですから、
人様の助かりにも寄与する事が
出来るようになるわけですけれどもね、
そう言ういわゆる真実の意味においての助かりを求める心、
が、先ず私自身の中に、私どもの心の中に芽生えて来る、
育って来るおかげを頂かねばなりませんね、
そしてその、いやいや、一時的な助かりではなく、
真実の助かりを頂きたい、と言う心が育って、
そして、ではどうなった時に真実の助かりが頂けれるのか、
それはやはり、親心が分かった時、と言う事になりましょうかね、
親が子供に、勉強をしなさい、
あれをしなさい、これをしなさいと言います、
勿論、親自身が何か手伝ってもらいたいから、
手伝いを頼む事も有りましょうけれども、
本当はその事を通して、いわゆる子供に育って欲しい、
子供が育つ事によって、正しく育つ事によって、
自分で生きて行く事が出来ると言うのでしょうかね
助かりが有る、
その子供が正しく育つ事を願っての、親心が有っての、
あれをしなさい、勉強をしなさいと言う事ですけれども、
その親心が分からないから、
いつも勉強しろ、勉強しろと言ってうるさい、
と言う事になってしまうわけですね、
その親心が分かれば、またその親心を分かろうとしなければ、
真実の助かりにはなりませんね、
ですからどうでも、ただおにぎりを頂きたい、
と言うのではなく、そこから更に、親心が分かりたい、
今難儀をしているならば、
その難儀に込められた神様の親心、神様の御心が分かりたい、
と求めて行き、そしてその親心に合点が言った時に、
初めて真実の意味においての助かり、が得るられる、
と言う事になりますね、
先ずは、真実の助かりを頂きたい、
と、真実の助かりを求めての信心、
と言う事に、心が育たねばなりませんね、
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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