今日も和賀心学 (2023-01-16)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
救われる身から、救う身になれと師匠大坪総一郎師は教えて下さる。私どもの意識が変わると言うのか育たねばならない。それは神様を便利屋のように使う信心から、天地金乃神様のお役に立ちたいと、使われる信心への転換でもある。救う身の発心がなされたとき愈々自分自身を見つめる心も強く深くなる。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 373頁)
ビデオ: https://youtu.be/evOQoKz3XgM
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/01-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-01-16.mp3
合掌
中原博信
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御理解 第60節
おかげは受け徳、受け勝ち
おかげはわが心にあるもの
お徳は神さまが下さるもの
四神さまのみ教えにも
『おかげは神から出ると思うな、氏子の心の中から出るものじゃ』
とありますが、お徳はそういうわけにはゆかぬもの
久留米教会の初代は、お徳は神さまのご信用と説かれてあります
神さまに信じられる信心をせねばなりません
本当のおかげは徳をうけたものには勝てません
御徳を受ける信心、
と有りますね、
また師匠は、よそ様ではおかげを受ける信心を教えて下さる、
が、ここ合楽では御徳を受ける為の信心を教える、
と言う様な事を仰って居られますね、
御徳を受ける為の信心、
しかし私どもは、御徳よりか、やはりそう言う御徳と言う
何か得体の知れないと言うのか、はっきりしないものよりか、
やはりおかげの方を欲しいと思いますね、
それこそ、今から米の、お米の、お米ですね、
お米を撒いて、お米は種ですからね、その種を撒いて、
それから苗代を作ってと言うのでしょうか、稲を作る、
収穫するのは、どれくらい先になるのでしょうかね、
1年先になるのでしょうかね、
そう言うずっと先に収穫する様な事よりか、
今直ぐ食べられるご飯を貰った方が良いわけですね、
それこそおにぎりの一つでも貰った方が有難いと、
種籾を貰うよりか、おにぎりを貰った方が有難い、
と、私どもは思うわけですけれども、
おにぎりは食べてしまえば、それまでそこで終わり、
種籾ですか、それは、そこから作れば、
それこそどれ程に広がるか分からない、と言う所が有りますね、
でもやっぱり私どもは目先の物を欲しがりますね、
昨日から頂きます、それこそ
救われる身から、救う身になる、と言う事ですね、
私どもが、おかげを求めての信心から、
御徳を求めての信心に意識が変わる、
それは、ただ単におかげを求める信心よりか、
御徳を求める信心の方がより値打ちが有る、価値が有る、
将来頂くものが大きい、と言う損得を基準にして、元にして、
御徳を頂く信心を目指そう、と言う目指し方が有りますね、
と、もう一つは、
それこそ私どもの意識が変わる、
師匠大坪総一郎師が教えて下さる、
救われる身から、救う身になる、と言う事ですね、
神様から、自分の為におかげを頂く、と言う、
その自分さえ助かれば良い、自分さえおかげを頂けば良い、
と言う信心から、人様にも助かってもらいたい、
人様が幸せになる事を願っての信心、
いわゆる人が助かりさえすれば、と言った様な
人様に助かってもらいたい、おかげを頂いてもらいたい、と願い、
そこの願いからの信心、言わば救われる身から、救う身になる、
そこに意識が変わって来る、変わらねばならないと言うわけですね、
心が育たねばならない、
それこそ、親に駄々をこねて、おもちゃを買って貰う、
欲しいものを買って貰う、と言う心根から、
今度は、親の役に立ちたい、親に楽をしてもらいたい、
どうしたら親の役に立てるだろうか、と言った様な、
今までは貰いっぱなしだったのが、
それこそこちらから御恩返しと言うのでしょうかね、
相手から貰うばかりの信心から、
今度は相手にも喜んでもらいたいと、
相手にお返しの信心と言うのでしょうかね、
そう言うふうに、
いわゆる私どもの意識が変わって来なければならない、
育って来なければならない、
そしてなる程今までは助けられてばっかりだった、
これからは御恩返しに、
その神様が人を助けようとされる、その人を助ける、
そのお役に立たせて頂く事をさせて頂こうと、
救われる身から、救う身への、となっての信心、
と言うのでしょうかね、そう言う意識が変わる、
では意識が変わったら、直ぐ人が助かるか、と言うと、
そう言うわけには参りませんね
教祖様の様に、神様の方から、
人を助けてやってくれと、お頼みになられるならば、
直ぐにでも人が助かり出すのかもしれませんけれども、
如何せん、凡夫の私どもであれば、
私どもが、人を助けたい、と思ったら直ぐ人が助かるかと、
言うわけには参りませんね、
しかしその、人を助けるお役に立ちたいと言う、
そこに意識が変わった時に、
さあどうしたらそのお役に立てるだろうか、
と言う事になりますね、
これは救う身より、失礼、救われる身より、
救う身にならせて頂こう、と発心した所から、
今のままの、このままの私では、とても神様が、
それこそ私の願いを聞いて下さるとは思えない、
人が助かる為のお役に立つ為には、
それこそもちっと修行をさせてもらわねばならない、
もっと大きな心にならなければ、
こんな小さな心では、とても人の助かるお役には立てない、
と、自分を見つめる信心も、
愈々深まって来るのではないでしょうかね、
そしてそこにそれこそ、ただねだって頂いていたおかげの世界では、
人を助けると言う事にはならない、
せいぜい自分が頂くおかげの時には、
ただねだって駄々っ子でねだっとれば良かったのだろうけれども、
人が助かる為のおかげを頂く、と言う事になったら、
これはやっぱり神様の御信用を頂いて、
神様がそれこそ喜んで授けて下さる様なおかげをも
頂いて行かなければならないなと、
言わば、救う身からと言いましょうか、
救う身になると言う事は、
これは神様の御信用を頂かなければ、とても出来るものではないな、
と言う事へと、心が進展して来ますね、そしてそこから、
救われる身から、救う身になる、その為には、
どうでも神様の御信用を頂きたい、
御信用を頂かなければ、神様が働いて下さらない、
と言う事になった時に、
これは神様の、それこそ御徳を頂かなければ、
とても神様のお役には立てない、
人が助かる事のお役に立つ為には、
先ずは御神徳を頂かなければ、と言う事になって来ますね、
救われる身から、救う身になろうと発心したら、
やはり御神徳を頂かなければ、救う身にはなれない、
と、そこに至っての御神徳を頂こうと、
神様からの御信用を頂こうと、目指す信心へと移って来ますね、
こちらの方は、いわゆる自分が欲しいものを手に入れる為に、
御神徳を頂こうとするのでは有りませんね、
勿論、欲しいものですけれども、
我が身欲身勝手の欲するものではない、
人が助かると言う事を欲して、頂こうとする御神徳ですね、
同じ御神徳を頂こうと言う信心でも、
その動機と言うのか、心根が違って参りますね、
その救われる身から、救う身になろうと発心して、
そこから、為には御神徳が頂きたい、神様の御信用を頂きたい、
と言う心へと進展して来る、そこからの信心になりますと、
また信心の味わいと言うのが一味違って来ると思いますね、
また信心への打ち込みをも違って来る、
ですからその信心への打ち込みを、
いわゆる真の信心への打ち込みを、と言うものが愈々
本当なものになって来る為には、
まず私どもの意識が、救われる身から、救う身に、
その意識が変革すると言うのでしょうかね、
育つと言うのでしょうか、
そう言う発心がなされて初めて、
それこそ神様の御心に適う私どもに一歩近付く、
と言うのでしょうかね、
そこからまた初めて、改めて神様のお役に立たせて頂きたい、
と言う願いもまた生まれて来るのではないでしょうかね、
ニワトリが先か、卵が先かと言う所も有りましょうけれども、
神様のお役に立たせて頂きたい、と言う願い、
救われる身から、救う身になる、その発心、
共々に頂いて行きたいものですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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