今日も和賀心学 (2023-01-18)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
私どもの願いが悉く成就すると言う助かり様は本当の助かりではない。子供が欲するままにチョコレートやケーキを与えていたのではやがて虫歯で苦労する事になる。確かに、吾唯足知的な欲しいものを外してしまう事による助かり様も有るが、師匠大坪総一郎師はそれは単に諦めで本当の助かりではないと仰る。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 261頁)
ビデオ: https://youtu.be/Xll9SPOtgQI
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/01-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-01-18.mp3
合掌
中原博信
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御理解 第23節
氏子が神と仲ようする信心ぞ
神を恐れるようにすると信心にならぬ、神に近寄るようにせよ
難儀は神さまと私共との仲立ちです
そこから神さまとの交流がはじまります
難儀が神愛と悟れる頃には、
いよいよ神さまとの仲に切っても切れぬ仲が生まれます
神の働きそのままに受けてうけて受けぬく時、
神の働きそのままのおかげの世界が生みなされて来ます
人が助かると言うこと、
その人が助かる 1つ目でしたね、
昨日頂きます 1つ目、
それは、私どもの願い事が叶うと言う助かり方、
欲するものが与えられる、と言う、そこに頂く助かり、
確かにそう言う助かりが有ります、
しかしこれはややもすると、自分の身に害になるばかりではなく、
勿論人様に対して害になると言う事も有り得る事ですね、
子供が、お菓子が食べたい、チョコレートが食べたい、
と言うから、その子供の欲するままにお菓子を与える、
子供はそれで大満足するでしょうね、
しかしその甘いものばかりを食べて居ると、
今度は虫歯になりますね、
虫歯になって、結局は、
自分が痛い目をしなければならない様な事にもなりかねない、
大人でもそうですね、あれが食べたい、これが飲みたい、
暴飲暴食、それが許されると言うのでしょうか、
その願いが叶い、暴飲暴食をした挙げ句は、
お腹が痛くなる、病気になる、と言う事にもなりかねませんね、
また人様のものを欲しがり、人様のものが手に入り、
その相手の人は、それで不幸な事になってしまう、
と言う様な事にもなりかねませんから、
私どもの欲するものが与えられる所に頂く助かり、
と言うものは、
自他共の助かり、と言う事にはなりませんね、
また私どもがそれによって
却って体を壊すと言う様な事にもなりかねない、
と言う事でありますね、ですから親として、神様として
人間氏子が欲するものを、欲する通りに与えると言う事は、
子供の本当の幸せを願えば、出来ませんね、
ですから私どもの願い通りの事が、
全ての事が願い通りに運んで、そこに得る助かりが有るとすれば、
それはたまに、時たま、と言う事になりますね、
神様がお許し下さって、まぁこれ位は良かろう、
と言う様な事ではないでしょうかね、
大抵の場合は、
私どもの思い通りにならない事が多いですね、
欲するものが与えられない、
さあそう言う中に 2つ目の助かり様が有るわけですけれども、
あれは龍安寺のつくばいですか、
吾唯足知、と彫ってあるそうですけれども、
師匠がこの事を御理解に教えて下さった事が有ります、
何かのお届けをした折でしたね、
ただ、確かにこの、吾唯足知、
言わばそれ以上欲しないと言うわけですね、
確かにそれ以上欲しない、
と言うそこに、一つの助かりは有りますね、
今、自分に与えられているもの、自分が置かれて居るその状況、
そこに満足すると言うのでしょうかね、
それ以上は欲しないと言うわけですから、
そこに一つの助かりは有ります、
欲するものが与えられない、
そこに助かりが無いわけですから、
その欲するものを無くしてしまえば、
そこに一つの助かりの世界が有る事は間違い有りませんね、
しかし中々、欲するものが与えられないから、
欲するその心を無くしてしまおう、
我情我欲を一遍に無くしてしまおう、と言うのは、
確かに文字面はそうですけれども、現実的に中々難しい事ですね、
それは、欲する心を無くせば助かる事は分かる、
しかしその欲する心を無くす事が出来ない、
そこに思い悩み、苦しみが有るわけですからね、
その師匠は、吾唯足知、これは諦めだと、諦観だと、
御理解下さいました、いわゆる単なる諦めだと、
自分の願い事が叶わないから、それを諦めようと言う諦めだと、
そう言うものは、
確かに一つの助かり様ではあるかもしれないけれども、
信心による本当の助かりではない、
言わば合楽理念による本当の助かりではない、
ただ欲する心を捨て去って、助かりの心を得る、と言う助かり方は、
本当の助かりからはもう一つ遠いと言う事ですね、
師匠は、合楽理念は助かりの理念、
だと、教えて下さいます、
その助かりの理念による、その助かり方が、
どう言う助かり方であるのか、
それは吾唯足知的な助かりではないのですね、
いわゆる、諦める、欲する心を無くしてしまう、
ただ、そう単純な作業による助かりではありませんね、
やはり師匠が教えて下さるその助かり様の一つは、
土の心であろうと思いますね、
土の心、受けて受けて受け貫く、
それは私どもの身の上に起きて来る事柄を受けて受けて受け貫く、
その受け貫く為には、やはり私どもの、
ああ有りたい、こう有りたい、
ああ有れば良い、こう有れば良いと言った、その、
欲する心を捨てなければ、我情我欲を外さなければ、
成行きを受けて行くと言う、その土の心を成就させる、
と言う事は出来ませんね
ですからその前提条件として、我情我欲を外すと言う事が、
土の心を身に着ける事の条件の一つにはなりますけれども、
そこ、ただ我情我欲を外すと言うだけには止まりませんね、
そこからもう一つ、もう一歩踏み込んで、
神様の願いが成就しておる、私どもの願い、私の願いが叶わない、
それはよりもっと大きな神様の願いが成就しているのだ、
と言う心が、育って来なければなりませんね、
まぁ、親の心が分かると言うわけです、
私どもがお菓子が食べたい、
チョコレートが食べたい、とねだる、
そしてしかしけれども、そのチョコレートが与えられない、
何故与えられないのか、
これは、これ以上チョコレートを食べる、
お菓子を食べ続けたら虫歯になるのだな、
寧ろ暴飲暴食を続けたら、
私の体が、を痛めてしまうのだな、
だから、親様が私の体を思い、私どもの願いを叶えて下さらない、
もうそれくらいで止めておけよ、と言う神様の御働きだと、
言わば神様が氏子を幸せに、本当の幸せにしよう、
体の丈夫を授けよう、とされる神様のその願いが、成就している、
それが私どもの願いが成就しないと言う事の裏に有るのだと、
言う事を気付かされる、
その事が分かっての、ああそれならば、
もうお菓子をおねだりするのは止めよう、
暴飲暴食を願うのは止めよう、と言う事になるわけですね、
親の思いが分かるから、これは私により一層、
より真実の幸せを下さろうとする為の神様の御心の現れだ、
そう言う私の真実の幸せを願って下さる、
その神様の願いが成就する為に、今私の願いが成就しないのだ、
と言うそこに至っての、私の願いを外すと言う事になりますね、
これはただの諦観ではありません、吾唯足知ではありません、
そこをもう一つ超えた、
神様の御心が、神様の願いが成就すると言う事においての、
私どもの願いを、欲しい、
と言うものを外すと言う事になりますからね、
そこにはそれこそ、
その神様の願いが成就した暁には、
私どもの願い以上、思い以上、
夢にも思わなかったおかげへと展開して来る、
それが真実の助かりだと、師匠は教えて下さいますね、
まぁ、それが 2つ目の助かりと言う事ではないでしょうかね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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