2023年1月31日火曜日

私の話を聴いて下さる方の上に天地金乃神様の特別の御働きが現れる様に願う (2023-01-31)

 今日も和賀心学 (2023-01-31)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


今朝から新しい願いをさせて頂いている。それは私の話を見て聴いて下さる方の上に天地金乃神様の特別の御働きを現して下さいと願っている。成行きを大切にして下されば、必ず神様の御働きが現れるように願わせて頂こうと思う。昔、祈りを送って壊れた時計が動き出すと言うTV番組が有ったと思うが....


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 137頁)


ビデオ: https://youtu.be/cluuVBFyaXA

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/01-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-01-31.mp3


合掌

中原博信

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御神訓




用心せよ、わが心の鬼がわが身を責めるぞ




自分自身心身共に助かることの為の信心であれば

心の鬼は出番を失う




助かる事の為の信心であれば、

心の鬼は出番を失うと、




自らの心の中にある鬼、

その鬼退治と言う事が大切ですね、




助かる事の為の信心、

これもやはり自分自身が助かる事の為の信心から、




そして更に、人様に助かって頂く事の為の信心へと、

その信心の内容がやはり変わって来なければならない、




育って来なければならない、と思うのですね、




今朝はと言うか、今朝から新しい取り組みを始めました、

それは、ふとある事に気付かせて頂き、




その私の YouTubeをご覧頂いて居る方、

これが統計が有るのですね、




それを見させて頂きましたら、今年 1月、昨日の時点で、

トータルで 599人のビュアーだと出ておりました、




勿論、1日の分ではありませんし、

昨日なら、昨日の分だけではなく、




遡って、約、そうですね、4500位有りましょうかね、

そのどれかをご覧に頂いた方も含まれると言う事ですけれども、




多いのか、少ないのか、少ない方かもしれません、

いやいや、少ない方に違い有りませんけれども、




この数が増える事を楽しみにしたいと思うのですが、




信心のベース、基本と言うものは、

やはり神様に手を合わせる、




その内容が自分の願う事が叶う事であっても、

人様が助かる事を願う事であっても、




願うと言う願う為には、まず神様に手を合わせる、

神様を拝むと言う事になりますから、




それこそ毎日神様に向かい、拝ませて頂く、

日参がやはり基本になりますね、




日参的信心、教会にお参り出来なくても、

宅の神様に手を合わせる、これが基本だと思いますね、




そしてそこから更に、教えを頂くと言うこと、聴教ですね、

聴教なしには、どう言う心を育てて良いのか、




何をどう育つべきなのかが分かりませんから、

やはり教えを頂く、と言う事が大切だと思いますね、




その教えを頂くと言う事においての、

教えを伝えさせて頂く




その御用の一環として、

この毎日の配信が有るのだと思います、




そしてそこに見て頂く、聴いて頂く方が居られて、

それだけでは信心ではありませんね、




信心の稽古であるからには、

そこにやはり神様の御働きが現れる、




勿論頂いた教えを実行する、行じてみる、

と言う心行であったり、




信心の行であったり、心の行であったり、

それを家業の中で日々の生活の中に表して行く、




家業の行であったりするわけですけれども、

そこに神様の御働きが現れないなら、




信心をして居るのか、していないのか、

ただ、精神修養で終わってしまいますからね、




そうではない、間違いなく、

天地金乃神様の信心をさせて頂いて居るのだ、と言う、




その証とでも言うのでしょうかね、そこに、必ず手応えを頂かねば、

意味が無いと言うのか、励みにもなりませんね、




神様の手応えを頂くからこそ、

次の御教えにも取り組んでみようと思う、




教えを行じた所に、そこに手応えが有るからこそ、

また次の教えにも取り組もうと言う、




いや、その教えをもっとより深めて行こう、

とも言う気になるものですね、




ですから今朝からは、私は、神様へお願いする、

もう一つ付け加えて、




どうぞこの、私の話を聴いたり、

見たりして下さるその人々の上に、




神様の御働きが現れますように、

神様の御働きを現して下さい、




そして、私の話を聴き、または見て、成行きを尊ぶ、

その人の上に、成行きを尊んだ為の神様の御働き、




と言うのでしょうかね、おかげを頂かせて下さいと、

その働きを、何と言うのでしょうかね、御働き下さい、




と言うわけですね、その人の成行きの上に、

神様、どうぞ御働き下さい、




そしてそこに手応えを感じさせて下さい、

と言わばこれは昨日のお話の続きの様にありますけれども、




そう言う願いを、

改めて加えさせて頂く事にしました、




これはある意味、昔、魔術師の方が居られましたね、

今から祈りを送りますから、スプーンが曲がりますとか、




今まで動かなかった時計が動き出します、

と言った様なテレビ番組があっておりましたけれども、




まぁ、それに近い様なお話かもしれませんね、




私の話に、触れて下さる人、その方達の、

それが成行きを尊んで下さったら、




そこに必ず神様の御働きを現して下さい、

神様どうぞ働いて下さい、と言う願いですね、




そう願わせて頂く事にさせて頂きました、




ですから、ただ話を聞いた、なる程そうかと思った、

と言うだけでは興が有りませんからね、




そしてそこに、なる程と、成行きを尊んだ、

そしたらそこに神様の御働きが現れた、おかげが頂けた、




と言う、そう言うお話をさせて頂きたいと思いますね、

言わば、遠くの人が、それこそ地球の裏側でも、




お参りが出来ないわけですから、




見て下さった方、聴いて下さった方がお参りされた事として、

神様に受け取って頂き、




そしてそれを、成行きを大切にする人の上に、

神様の御働きが、いわゆるおかげが現れる様な、




その事を改めて神様に願わせて頂き、

そう言うおかげを頂いて行きたいと思いますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



2023年1月30日月曜日

成行きを願い、成行きを頂く (2023-01-30)

 今日も和賀心学 (2023-01-30)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


今朝は、「成行きを願い、成行きを頂く」と頂く。信心が進むに連れて愈々欲が強く深くなる。段々に我情我欲は薄らぎ、別の欲が、天地金乃神様の心を心とした欲が強くなる。それは、人を助けたいと言う欲。吾無力を悟り、人を助けさせて下さいと言う願いが愈々強くなる。氏子が助かる為の成行きを願う。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 285頁)


ビデオ: https://youtu.be/g_fwHMPMh7k

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/01-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-01-30.mp3


合掌

中原博信

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御理解 第31節




信心する者は、木の切り株に腰をおろして休んでも、

立つ時には礼を言う心持ちになれよ




信心して、いよいよわからして頂くことは、

すべてが有難しとお礼を申し上げねばならぬことばかり




御礼の対象にならざるはなし

そこから真のおかげの道が開かれてくる




すなわち『道不孤(みちはこならず)』である

但し、ここに思わせられることは、おかげの頂き過ぎである




お礼もさることながら、

御礼そしてお詫びが切実になされねばならぬことを思う




お詫びと申されております、

しかしこの時は、昭和 45年です、




それから何年かして、師匠はお詫びは、

いけないと言うわけではないですけれども、




お詫びと言う事にはまってしまうと、

人が助からなくなる、




その更に、お詫びから、願いの信心、

と言う事に入って行かれましたね、




確かにあれはどなたでしたか、

詫びて悲しゅうなればおかげを授ける、でしたか、




何かその様な教えを頂かれた先生が居られた、

と思いますが、




その自らの、何と言いましょうかね、不徳さと言うのでしょうか、

至らなさにお詫びを申すと言うのでしょうか、




三代金光様でしたか、

御礼の足りぬお詫びばかり申しております、でしたかね、




そう言うある程度のお詫びと言うのは良いのでしょうけれども、

それがお詫びが高じてしまうと言うのでしょうかね、




自分を苛んでしまう程しになってしまうと、

今度は却って人が助からない、




自分自身が助からない事にも繋がりかねない、

微妙な所が有りますね、




ですからある時点からは、そのお詫びの信心から脱して、

寧ろ御礼、あるいは愈々は、お願いの信心、




それこそ、お詫びをせずに居れない私であるけれども、

言わば信心が出来てない私にも関わらず、この様なおかげを頂いて、




と、今度はお詫びの信心から、御礼の信心へと、

育って行かねばならない、




その一過程においてのお詫びの信心だと、言う事なのですね、

そしてそれが、お詫びも足りない私です、




と言うそのお詫びを申さずには居れないけれども、

おかげを頂いて、有難いと、




寧ろお詫びを超えて、御礼の心が湧いて来る、

そして更に、御礼の心から、今度はお願いの心が湧いて来る、




その、師匠は、やはり願いの信心が最高峰だと、

仰って居られました、




では何を願うのかと言う事になりますね、




願うと言っても、身欲身勝手、我情我欲の事を願う、

そう言う信心が最高峰だとは思えませんね、




成行きを願い、成行きを頂く、と今朝は頂きました、

それこそ成行きを願うと言うのがあって、




そしてなる程、成行きを願うからには、

それを受ける、と言う事が出来るわけですね、




いきなり成行きが来ても、中々受けるのは難しい、

しかしそこに、成行きを願っておれば、




ああ願って居る、そこから生まれて来た成行きだ、

と思えば、頂けれるわけですね、




私が修行に入らせて頂いて、数日した後でしょうか、

ある御祈念中にお知らせを頂きましたが、




その事に対して、

師匠が御理解下さいましたのが、




ここに、力を受けたいと思って、修行に入った、

そしてそこに、神様が、力をやらないよ、と言われる、




それならば、

力を下さい、と願うであろうと、




神様がやらないと言われたら、

それでも下さい、下さいと縋って行かねばならない、




そしてそこに、縋って行くからこそ、

言わば、力を下さいと願うからこそ、




そこにその力を下さる元である、修行なら修行、

成行きなら成行きを神様が下さる、




そこに、それならば、この修行も、

力の元になるこの修行も頂きます、




と頂いて行く事が出来るようになるだろう、

と言う事でした、




言わば願うから、頂く、と言う事ですね、

どうも私には、神様がたてがわれる様な所が有る様なのですね、




力はやらんよと、私はどちらかと言うと、

やらんよと言われたら、いらんよと、




何ですかね、そう言うてしまう様な所が有りますけれども、

師匠は、やらんよと言われたら、それでも下さい、




と縋って行かなければならないと、それは何故か、

我が身勝手の我情、我欲の為に願う願いではない願いだからですね、




成行きを願う、そして成行きを頂く、




それでも我情我欲の成就する事の為に成行きを願い、成行きを頂く、

と言う時代も有りましょうけれども、




そこからもう一歩先に進んで、

今朝、もう一つ頂きますのは、




人を、それこそ人様を助けさせて下さい、

と言う願いが愈々強くなって行かねばならないと、




私どもが我情我欲が無くなる、

それならば、それで良いのかと言うと、




我情我欲が無くなった次には、また欲が愈々膨らんで来る、

その欲が強くなって来る、それはどう言う欲か、




神様の心を心とした欲が強くなって来なければならない、

育って来なければならない、それは、人を助けたいと言う欲だと、




教祖様も仰って居られますね、

だんだん、大欲が有りますと、




人を助けたいと言う欲が私にも有りますと、

仰って居られます、




その人を助けたいと言う欲が、

信心をすればするほど強くなって来なければならない、




言わば貪欲なまでに人の助かりを願う、

人を助けたいと言う欲が強くなって来る、




そして、自分では助けられない、助ける力が無い事が、

また同時に分かって来る、




そこに、それでも助けたい、

そこに神様、どうぞ人を助けさせて下さい、




人が助かるお役に立たして下さいと、

人を助けたい、と言う欲が強くなり、




そこから更に、人を助けさせて下さいと言う欲が、

愈々深まる、強まって来ると言う事ですね、




それは、もし私どもに中途半端に人が助かっておれば、

そこ止まりかもしれません、




寧ろ人が助からないと言う現実が有るからこそ、

より一層人を助けたい、人を助けさせて下さい、




と言う欲が、愈々膨らんで来る、願いが強くなる、




神様が、お前には力はやらんよと、言われれば言われるほど、

どうぞ力を授けて下さい、と言う願いが強くなる、




強くなって行かねばならんよと、

師匠は教えて下さったわけですから、




人が助かれば、それこそより一層人が助かるようにと願い、

人が助からねば、より一層人が助かりますようにと言う願い、




が強くなる、そう言う欲が深まって行くと言う事ですね、

そしてそこに願われる願いが、




どうぞ人様が助かられる様な成行きを頂かして下さいと、

そしてその、ある相手の方のその人の身の上にでも、




その人が助かられる様な成行きが起こりますようにと、

その成行きを大切にして行きさえすれば、人が助かる、




と言う私の身の上における成行き、

そして相手の方の上における成行きをも願うと言う願い、




どうぞ成行きを大切にして下さい、あなたが成行きに大切にすれば、

必ずあなたは助かります、救われます、と言えるように、




言わば、その人に起こる成行きを願う、

と言う成行きの願い方ですね、




成行きを願い、成行きを頂く、

自らの成行きだけではない、




人様の身の上に起こって来る、その人を助けようとする成行き、

神様の御働きが現れる事を願うと言う事ですね、




どうでも、人が助かりますように、人を助けたい、

と言う願いが愈々強くなり、




そして、人を助けさせて下さい、

と言う願いが、また育ち、強くなり、




そしてそこに、人が助かる様な成行きを、神様起こして下さい、

起こさせて下さい、と言う願いが強くなる、




成行きを願い、成行きを頂く、

と言う事になりますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



2023年1月29日日曜日

天地日月の心、自らの助かりの為に地の心、平和な人間社会を築く為に天の心 (2023-01-29)

 今日も和賀心学 (2023-01-29)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


教祖生神金光大神様は、天地日月の心になること肝要なり、と御教え下さる。今朝は、人間が個人的な助かり、幸せを求めて地の心を身に着け、平和な人間社会を築くために天の心を身に着けるのだと頂いた。地の心とは受けて受けて受け貫く土の心、天の心とは人様の幸せを祈り与えて与えてやまぬ美わしの心。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 355頁)


ビデオ: https://youtu.be/qEBIqH1vpTM

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/01-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-01-29.mp3


合掌

中原博信

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御理解 第54節




徳のないうちは心配する

神徳を受ければ心配はない




損得を任せ、生死までも神さま任せになれた時の状態が

『心配はない』の時である




神徳を受けるということは、

神を信じ神に信じられる事である




私共の場合あまりに心配なことが多い

そこに信心の精進が求められるのである




不思議に不安から安心の世界が開かれ、

闇の世界から光明の世界に移り住むことが出来る




既に神徳の世界である




信心の精進、

と教えて下さいます、




その信心の精進をするとか、

信心の稽古とも教えて下さいます、




ではその信心の稽古とは何をするのかと、

その信心の精進、信心の稽古、




師匠はそれを 5つの行、

日参、聴教、信行、心行、家業の行と教えて下さいます、




日参、毎日のお参り、

そして聴教、毎日の御教えを頂く、




信行、信心の行ですね、言わば御祈念をあげると言う、

神様に向かい御祈念の、昔で言えば大祓いですか、




今で言えば、拝詞信行ですか、をさせて頂く、

そして心の行に努める、




そしてそれが家業の行、

いわゆる家業の中でその行がなされる、




と言うのか、信心による家業と言う事になりましょうかね、

それこそあれは何ですか、




生活の為の信心から、信心の為の生活と言う事になった時に、

家業の行と言う事になるのではないでしょうかね、




その心の行ですけれども、具体的にでは心の行とは何か、

これはやはり教祖様が教えて下さいます、




天地日月の心になること肝要なりと、天の心、地の心を、

日月の心を求めての心の行、精進と言う事になると思いますね、




では天の心とは、与えて与えてやまぬ美わしの心だと、

地の心とは、受けて受けて受け貫く土の心だと、




そして日月の心とは、正確無比な、

またはその実意丁寧な心だと、




今朝頂きますのは、

その私どもの個人的な助かり、と言う事においては、




この土の心をマスターすると言うのでしょうかね、

土の心を身に着けようとする、受けて、受けて、受け貫く心、




その受け貫く心を頂く為には、

やはり私どもの我情我欲を外さねば受け切れませんね、




そしてまた、成行きが神様の御働きだと、

私にかけられた神様の願いが成就するため、




それは私どもの幸せを願っての神様の御働き、

だからその神様の御働き、成行きを頂く、




その為には、土の心で頂き貫く、

その事柄によって、私どもの心を改めて行く、




言わば心の根を肥やして行く、

大地がそれこそ様々なものを振りかけられる、




その事を根肥やしとして、綺麗な花を咲かせたり、

美味しい果物を実らせたりするように、




その心の大地と言うのでしょうかね、

それを肥やして行くのだと、




為に受けて受けて受け貫くのだと、

これは自らの助かりに繋がる事ですね、




そして今日、特に頂きますのは、

もう一つの天の心、




師匠は、地の心で 8合目まで、

後の 2合は天の心で、と教えて下さいます、




勿論、この天の心、地の心、日月の心を身に着けると言う事が、

神様からの御信用を頂くと言う事でもありますけれども、




今日は特に、人類としての平和、と言うのでしょうかね、

人類世界の助かり、私個人一人の助かりではない、




人類としての、社会と言うのでしょうかね、

の助かりの上において、これは天の心が要るのだと、




言わば、社会的なものと言うのでしょうかね、

人と人との繋がりと言うのでしょうかね、




そう言う上において、天の心、これは人様の助かりを祈る心、

願う心でもありますね、




人様が助かられる、その事の為に寄与させて頂きたい、

その事の為に与えて与えてやまないのだと、




それは勿論与える事によって、

私どもの中に喜びが湧いて来る、




それは、相手の方が助かって下さる、

その事を祈っての事であるわけですからね、




人の助かりが私どもの喜びだとなって来る、

言わば人様が助かられる事、を祈る、願う、




その事の為に何かしら行動をする、

それがやっぱり天の心と言う事ですね、




人の助かりを祈る心、それが芽生えて、育って来る、

と言う事になりましょうかね、




その天の心が、出来上がってと言うのか、

身に着いて初めて、心が成長すると言う事になるのでしょうかね、




ある意味、自分の事は 8分考えて、後の 2分は人様の助かりを祈る、

願うとも言えるのかもしれませんね、




自分の事ばっかり考えていたのでは、

我利我利亡者と言うのでしょうかね、




自己中心と言う事になってしまいます、




もっともそれが、相手の事を、だけを考えると言う、

全く綺麗な心の人も中には居られましょうけれども、




人間中々そうは行きませんからね、

とにかく、先ずは自分の事は 8分で止めておいて、




後の 2分は人様の助かりを祈らせて頂く、

と言う事も要るのではないでしょうかね、




そしてそこから愈々、

相手の、人様の助かりを祈れれるようになる、




そして寧ろ自分の事よりも、

人様の助かりの方を先にするようになる、




そう言う心が愈々、育って来なければなりませんけれども、

先ずはせめて 2分位は人様の事を祈らせて頂く、




そう言う心を頂いて行く、と言う事でしょうかね、




もし、これが皆んなが、人の助かりを願う、

その事で満たされる様な世の中になれば、




戦争も犯罪も、そう言う争い事などは無くなるのでしょうからね、

自分の事ばっかりしか考えられない、自分の欲を満たす事、




自分が満足する事、そこばかりに血道を上げるから、

犯罪も戦争も起こって来るのでしょう、




せめて、先ずは 2割位は、

人様の助かりを願えれれる様な私どもにならせて頂く、




そこから社会の平和も出来る、とまでは行かないでしょうけれども、

そこへ向かって進む事が出来る、




そしてゆくゆくは、それこそ100パーセント、

人様の助かりを祈る心で、私どもの心が満たされた時には、




お互いが、平和な社会が愈々築かれて来る、

と言う事になるのではないでしょうかね、




為には、せめて 2割位は、人の助かりを祈れれれる様な私どもに、

先ずはならせて頂きたい、




それが、天の心を身に着けると言う事の稽古にもなる、

と言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします、




ありがとうございます