2022年11月29日火曜日

痛い、けれども有難いの御礼が天地金乃神様に通う (2022-11-29)

 今日も和賀心学 (2022-11-29)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


奇跡的なおかげを頂くと言う。その奇跡的なおかげや、お医者さんからも見放された病人が九死に一生のおかげを頂く、そう言ういわゆる好都合なおかげを頂く時の有難さでは世の光にはならない。痛い中にあっても神様の御心に触れ御神働きを実感した時に頂く有難さ御礼心であって初めて世の光ともなり得る。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 132頁)


ビデオ: https://youtu.be/VhCskWBD7ag

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/11-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-11-29.mp3


合掌

中原博信

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御神訓




若い者は本心の柱に虫を入らせなよ




信心は筋金入りでなければならぬ

筋金には虫も寄りつけぬ




目もと口もと耳もとに御用心

信心の心で見ること聞くこと味わうことです




俗には「見ざる言わざる聞かざる」と申しますが、

信心する者は見ても聞いても迷うことがあってはなりません




迷う事があってはなりませんと、

さあ何を迷うのか、




それはやっぱり困った事が起こって来た時、

それを困った事としか捉えられない、それが迷いですね、




神様の御働きと頂けない、

それが迷いだと思いますね




信心は有難くなる稽古だと

教えて下さいます、




そしてまた師匠は、日本一有難い私になろう、と

そこを目指したと仰って居られました




その有難い、と言う事を目指すわけですね、

信心は位がつくほど有難くなるものだと、




歳が取るほど有難くなって行くと、




その有難いを、それこそ 10万遍ですか、100万遍ですか、

唱えたら癌が治ったと言う方も居られますね




その有難いと言う心が天地に通う、

そこに天地の御発動が有るわけですね




それこそお天道様や、雨が降って来る、お湿り、

そう言うものも当たり前と思っていたものが、




いや、これとても神様の御働きであった、

大変なるお恵みであった、と分からされる、




髪の毛、抜けて行く髪の毛 1本、1本に、

その髪の毛の恩を感じると言うのでしょうかね、




細胞の一つ一つに恩を感じる、今まで恩とも思っていなかったものに、

恩を感じて、そこに有難いと言う心が湧いて来る、




その有難いと言う心が、その対象が問題ですね、

師匠大坪総一郎師は、




その自分にとって都合の良い事が起こって来た事、

その事に対して有難いと感じる、これは誰でもすぐそうですね、




自分の好きなものを頂いたら有難い、

それこそお金を儲かったら有難い、何か願い事が叶ったら有難い、




自分にとって都合の良い事が起こって来る、

その事に対して有難いと言うのは、これは誰でも言えますね、




誰でもそう感じますね、九死に一生のおかげを頂く、

もうそれこそお医者さんからも見放された、治療の術も無い、




そして神様にお縋りした、それでおかげを頂き、

九死に一生のおかげを頂いた、ああ何とまあ有難い神様だ、




とそこに有難さを感じる、言わば奇跡的なおかげを頂いた、

それで有難いと言う、




こういう有難さは、それこそそう言うおかげを頂けば、

誰でも有難いと言いますね、




死にそうな人が命拾いをして、それで有難い、

有難くない、と言う人は少ないでしょうね、




やっぱり命拾いをして、

難から逃れられて有難いと言う、




しかしその自分にとって都合の良い事が起こって来た事に対して、

有難い、と言う、




そう言う有難さを千遍万遍重ねたからと言って、

それは世の光にはならない、と言うのですね、




自分にとって、それこそ好都合だと言う様なおかげを

千遍万遍受けたとしても、それは世の光にはならないと言うのです




真に世の光になる、

それこそ神様の御心に通う有難さとは、どこなのか、




自分にとって都合の良い事が起こって来た事に、あるいは、

今まで分かっていなかった事が、実は都合の良い事であったと




言う事に気付いて、有難いを言う、

それは勿論神様に御礼を申すと言う事は大切です、




もしも奇跡的なおかげを頂いても、これはフが良かったのだろう、

そう言う時期が来ていたのだろう、




と神様のおかげを感じないならば、それは言語道断ですけれども、

そう言ういわゆる奇跡的なおかげを頂いておる事に御礼を申す、




そう言う信心では、これは浅いと言うわけですね、

いつまで経っても世の光にはならない、




神様の御心に、琴線に触れる有難さではない訳ですね、

私どもが目指す、特に取次者が目指す有難さ、




それは不都合な時、自分にとってどう考えても不都合だ、都合が悪い

と言う様な中にあって、そこに有難いと言う答えを出すと言うのか、




そう感じると言うのか、その不都合な事が起こって来た時に、

そこにそれこそ、そこに込められた神様の御思い、




御働きと言うものを実感させて頂き、

そこに有難さを感じる、




それは例えて言えば、痛い、痛いけれども有難い、

と表現されます、その有難さですね、




我が身をつねればそれは痛いのは痛い、

そこに、あぁこれはつねって痛いのは命が有るから痛いのだ、




だから有難い、と言うのも確かに有りますけれども、

そこ止まりでは、まだ光とはなり得ませんね




そのつねって下さる神様の御心、御働きが分かり、

そのつねって下さる神様に対して有難さを感じる




痛い、けれどもそこに込められた神様の思い、

神様の御働きが有難い、となった時に初めて、




それこそ一切のものに御礼が言えれるようになる事でしょうし、

神様の御思いに対しての有難さですから、




それは、我が身にとっては不都合かもしれない、

しかし神様の思いを思うた時に、




神様の御働きを感じた時に頂けれる有難さですから、これは

天地に通わないはずが無い、神様の御心に通わないはずが無い、




そこに初めて、光が頂けれる、

世の光ともなる、と言う事なのですね




自分にとって痛い、痛いと言う時に

神様の御働きを御働きとして実感して、そこに有難さを感じる




表現すれば、痛いけれども有難い、と言う事でしょうかね

それがその有難さが初めて世の光ともなる、




そこから初めておそらく、

人が助かると言う事にも繋がって来るのでしょうね、




それは、人が助かる、

神様がそう言う助かる働きを現して下さるようになる、




と言う事ですね、

そこの一線を超えると言う事が要りますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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