今日も和賀心学 (2022-11-25)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
信心の目的は人によって様々に有るのだろうが、単にマイホーム的なおかげを喜ぶ信心から天地金乃神様が願われる所に焦点を定めての信心に育たねばならない。それは日々の神様の御働きである成行きを頂きつつ、我が事はさて置いてでも人の助かりを願い祈る心が育つこと。それが世界真の平和にも繋がる。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 118頁)
ビデオ: https://youtu.be/aGxobXs1yZA
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/11-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-11-25.mp3
合掌
中原博信
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御神訓
何を食うにも飲むにも
ありがたくいただく心を忘れなよ
美味しく、楽しく、有難く
今日の師匠のミニ御理解は大変シンプルですね、
美味しく、楽しく、有難く、
これが勿論、食物の事も
美味しく、楽しく、有難く、
食物の事のみならず、
私どもの人生の上において様々な事が起こって来る、
その様々な事柄を美味しく、楽しく、有難く頂く事が出来たら、
それこそそこに和らぎ賀ぶ和賀心も生まれて来る事でしょうね、
その食物ばかりの事ではない、私どもの身の上に起きて来る事柄、
言わばその成行きを美味しく、楽しく、有難く頂けれようになる、
しかしそのただ美味しく、楽しく、有難く頂けるようになれば、
それで良いのか、と言うと、
今朝頂きますのは、そこで止まってはいけないよと、
それは、いわゆるマイホーム的な信心だと、
神様が求められる信心、
また師匠大坪総一郎師が、渡したいと願われる信心、
天地金乃神様が氏子に願われる信心とは、何か、
何の為に、なぜ信心をするのか、
その信心をすると言う事が、ただ自分の願い事を叶えて欲しい、
商売が繁盛をしますように、生活が楽になりますように、
あるいは様々な願い事が有ります、
大学受験であったり、就職の事であったり、
色々な人生の上に起きて来る、いわゆる困った事、難儀、
と言った様な事に答えを見い出して行くと言うのでしょうかね、
神様に解決して頂くと言うのでしょうかね、
そう言う事の為だけに信心をする、と言うのでは、
何と言いましょうかね、
先が無いと言うのか、伸びないと言うのでしょうかね、
ゴールが、
私どもの願いが叶うと言うとこだけのゴールだったのでは、
そこに至ったら、例えば現世利益を頂いたら、そこ止まりで、
信心がそれ以上伸びませんね、
神様が願われるもの、それは勿論神様のおかげを頂きつつ、
神様の御働きを頂きながら、私どもの人間の心が育って行く事、
そして人間の心が愈々育ち、それこそ神の心と一つの心になる、
神心が、人間心が育ち神心になる、還って行くと言うのでしょうかね、
それをやはり信心に、すると言う事、信心の稽古をすると言う事に
求めて居られるのではないでしょうかね、
神様の御働きを頂きつつ、私どもの心が愈々育って行くと言う事、
ではどう言うその心が育つのか、
勿論私どもサイドからすれば、
和らぎ賀ぶ和賀心と言う事になるのでしょうけれども、
神様の側から見れば、どう言う心が育って欲しいのか、
それはやはり人の助かりを願う、祈る、
そう言う人々が、そう言う心が育って欲しい、と言うのが、
神様の本音ではなかろうかと思いますね、
世の中に、それこそ人の助かりを祈る、
願う人達が増えたら、
もっとそれこそ世界真の平和と言う事も
近付いて来るのではないでしょうかね、
人様の幸せよりか、自分の幸せを願う、
自分の家庭が幸せならばそれで良い、と言った様な所に、
大きく言えば、戦争も起こって来るのでしょう、
自分の願いだけを叶えること、
その願いも、いわゆる身勝手な我情我欲の願いを叶えてもらう事、
あるいは叶える事、そこのみに焦点を置いての人生であるから、
そこに争いも起こって来るわけですね、
世の人々の心が育ち、自分の事はさて置いて、
人の助かりを、人の幸せを願える、願うような、
そう言う人達がそれこそ街の中に、村の中に溢れたら、
争いは少なくなる、
そして愈々そう言う人達で満たされたら、
争いは無くなる事でしょうね、
争いが、戦争が無くなる為には、
あれはいかん、これはいかんとその禁止項目をしたり、
こう言う事は止めよう、ああ言う事は止めよう、
と言う事も大切でしょうけれども、
それでは根本的な解決にはならない、
根本的な世界真の平和は、やはり人間の心が育つ事、
そして人の助かりを祈る人々が愈々増える事、
そこに初めて世界の真の平和が達成されるのではないでしょうかね、
信心をすると言う事は、そこに神様が願われる事は、
人間一人一人が神様の御働きを頂きながら、その心を育てて行く、
どう言う心を育てるのか、それは人の助かりを、
それこそ我が事よりも人の助かりを願う、祈れる人々、
そう言う心を持って居る人々が、
愈々育つ事だと言う事ですね、
そのやっぱり目的と言うのでしょうかね、行き着く所が有りませんと、
中々信心の稽古にも励みがつきません、
神様がどこへ私どもを導こうとされて居るのか、
その行き先ですか、その行き先がハッキリしますと、
やはりその打ち込みようも違って来ますね、
それこそスポーツ選手が金メダルを取ろうと、
金メダルを取りたい、勝ちたい、とそこに焦点を定めるから、
練習にも励みがつくと言うものですね、
ただ面白いから、楽しいからしている、と言うだけでは、
練習もしだごだになったり致しますね
もうキツイから、これ位で止めようとか言う事になります、
それでは練習の楽しみと言うものも味わえませんね、
信心の稽古の楽しみを味わえるようになる、為にはその目的として
定める所、それが確かに、確かな所に定められていなければならない、
それは、信心して心を育てる事だと、
日々の神様の御働きを頂きながら心を育てる事だと、
しかもその心とは、人の助かりを祈る心が愈々育つこと、
そこに焦点を置いての信心でなければならない、
神様のお役に立ちたい、
人が助かる事の為の神様のお役に立ちたい、と願う人、
そう言う心が育つ人、
そこに焦点を定めての信心でなければならないと言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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