今日も和賀心学 (2022-11-04)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
昨夜は息子の招待でお寿司屋さんに行かせて頂いた。雨の中開店前からお客さんが並んで待って居られた。通りすがりにぶらりと寄る様な立地ではない。どう言う成行きだろうかと思う。その店でしか味わえないものを味あわせると言う事。広前で言えばその広前でしか味わえない神徳を味あわすと言う事だろう。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 355頁)
ビデオ: https://youtu.be/5iN9eCzwzk0
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/11-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-11-04.mp3
合掌
中原博信
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御理解 第54節
徳のないうちは心配する
神徳を受ければ心配はない
損得を任せ、生死までも神さま任せになれた時の状態が
『心配はない』の時である
神徳を受けるということは、
神を信じ神に信じられる事である
私共の場合あまりに心配なことが多い
そこに信心の精進が求められるのである
不思議に不安から安心の世界が開かれ、
闇の世界から光明の世界に移り住むことが出来る、
既に神徳の世界である
神徳の世界、と師匠が教えて下さいます、
御徳と言うもの、
昨日は息子の招待であるお寿司屋さんに行かせて頂きました、
いわゆる、いわゆる本当のお寿司屋さんと言うのでしょうかね、
その回転寿司とか、何々寿司とか言いますが、そう言うのではなく、
昔ながらのお寿司屋さんと言う様なお寿司屋さんですね、
そこで驚きましたのは、
お客さんが多いですね
雨が降って居りましたが、その開店間際と言いましょうか、
開店前と言いましょうか、それから人が沢山並んで居られました、
で、後でその店主の方が各テーブルにご挨拶に来て居られまして、
今日は日本人のお客さんは私達だけです、と仰って居られました、
あとは色々なアメリカの国は沢山の人種の人達が居られますから、
色々なその人種の人達がやはりお寿司を頂きに来て居られました、
いわゆる何と言いましょうかね、その安いお寿司ではないのですね、
それでもほぼ満席でしたね、その事を頂きながらと言うのでしょうか、
そう言う成行きを頂き、そして神様が何を教えて下さるのだろうか、
何を仰って居られるのだろうか、
また何を私どもに分かれと仰って居られるのかと、
心中祈念の時にしきりに思わせられたのですけれども、
それ程のお金を出してでも、
そこに食べに来る人達がいる
どうもそのいわゆる一回ぽっきりと言う風ではない感じが、
多かったですね、そのいわゆるリピターと言うのでしょうかね、
一回ぽっきりで行くにしては一寸値段が高い、
と言うのでしょうかね、
帰る時に、私にしてみればびっくりする様な金額でしたけれども、
それでもやはりお客さんが来る、
何か確かに引き付ける魅力が有るのだと思いますね、
言わば、他所では味わえないもの、
それこそ回転寿司では味わえないもの、をやはり味あわせてくれる、
勿論その料理の味と言う事も有りましょうし、
その行き届いたサービスと言うのでしょうかね、
従業員さん達のサービスと言う事も、色々な事も有りましょう、
また店主の方が自ら各テーブルにご挨拶に来られて、
色々お話をして居られるようでしたね、
そう言う、そこに行かなければ、そこでなければ味わえないもの、
がやはり有る訳ですね、
それだけのお金を払ってでも、
味わえない、他所では味わえない、
そのお店だけでしか味わえないものが、
そこにはやはり有るのだと思いますね、
これを翻って例えば私どもに思うた時に、
あるいは御道の教会と言うものに当てはめた時に、
果たしてそう言うものが有るだろうか、
と今朝は思わせられたのですね、
これは神様が、例えば教会なら教会、
あなたの教会ならあなたの教会に、
それこそあなたの教会でなければ味わえない、
頂けないものが有るかと、
何処でも良い様な、どこの教会に参っても同じだと言う様な、
近くの教会で済ませとこうと、近くのお店で済ませとこうと、
言わばどこそこのスーパーで、どこそこで済ませておこうと、
何処でも一緒だと、同じ商品を売っていると、
同じ商品を売ってて、同じ様に頂けれる、
と言った様なものならば、何処に行っても変わらない訳ですね、
いわゆるチェーン店の何々と言う所で何処でも食べられる、
と言う様なものですね、
どうも昨日の成行きから言うと、
神様がそう言うものを私どもに期待して居られる様ではないなと、
いわゆるあなたのお店でしか味わえない、
そう言う信味と言うのでしょうかね、
信心の味わい、それを出せているかと、
そしてそう言うものを出して行くのが、
師匠大坪総一郎師の許で修行をさせて頂いた者の
ある意味、使命と言えば一寸あれですけれども、そう言うものだと、
それこそ今日の、師匠が神徳と教えて居られますが、
その、例えばその神徳を味あわせ切っておるかと、
師匠の許の出社と言うのでしょうかね、であるならば、
その神徳の味わいを十分に味あわせ切っておるか、
やはり師匠の味わいは神徳に他なりませんね、
師匠にはその神徳を感じさせるものが有りました、
ですからそこで学んだ私どもが、やはりその神徳の味わいを、
人々に味わってもらう、果たしてそう言う事が出来ておるかと、
何か神様から問われている様な感じが致しましたね、
あなたの所でなければ味わえない、そう言うものが有るのか、
そう言う此処でしか味わえないものが無いならば、
どこそこの何々と同じだと、
何と言いましょうかね、
それはそれで良いのかもしれませんけれども、
折角ならば其処でしか味わえない、
そこに、そこでしか味わえないから、
その味わいに魅せられて、
人々が寄って来られる、と言う事でも有りましょうね、
何を味あわせるのか、それはやっぱり師匠の神徳、
その神徳の流れを味あわせる、
信心の味わいを味あわせきる教会でなければならない、
と神様がそう仰って居られる様な感じが致しましたね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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