2022年11月17日木曜日

人が助かると言う事が第一です (2022-11-17)

 今日も和賀心学 (2022-11-17)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


今朝は、人が助かると言う事が第一です、と頂きました。全ては人が助かる事に焦点を当てねばならないことが分かります。色々な御教えが有りますが、それらは全て人が助かる事の為に有ると言う事です。ついつい教えを行じていないと言って他を責めたり、自分自身すらを責める事が有りますが本末転倒です。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 220頁)


ビデオ: https://youtu.be/lJrMGlFXrfc

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/11-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-11-17.mp3


合掌

中原博信

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御理解 第9節




天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ

信心は心を狭う持ってはならぬ、心を広う持っておれ




世界を広う考えておれ

世界はわが心にあるぞ




せまい心で大きな願いをたてても無理なはなしです

先ずは広い心を願い、その修行をせねばなりません




だまって治める信心、即ち土の信心

心は自ずと大きく広く豊かになってまいります




清濁一如の信心もわかります




大願の氏子の上には特別の

親神さまの働きが受けられます




大願の氏子の上には特別の神様のおかげが受けられますと、

ではその大願とは何だろうか、大きな願いを持つとは、




これはやはり神様のお役に立ちたい、

と言うのが大きな願いだと思いますね、




お金持ちになりたい、それこそ大金持ちになりたい、

日本一、世界一の大金持ちになりたい、




あるいは有名人になりたい、

あるいはオリンピックで金メダルを取りたい、




なる程いかにも大きな願いの様にありますけれども、

それは人間社会での事、




神様の目からご覧になっての

大きな願いでなければならない、




もしそれが、日本一の、世界一の大金持ちになりたい、

と言う様なものでさえも、




神様の目からご覧になれば、

それは人間の小さな了見の小さな願いだとしか思えませんね、




それこそスポーツ選手で金メダルを取りたい、

何々の競技でそれこそ優勝したい、




一見、人間社会では大きな願いの様に思えますけれども、

それはやっぱりある意味、我情我欲から来た所の、




神様の目からご覧になれば、

人間のささやかな小さな願いだと思いますね、




神様の目からご覧になっての大きな願い、と言う事ですね、

人間の私どもの目から見ての大きな願いではない、




それは人間側から見る大きな願いと、

神様の側から見る大きな願いとは、やはり違いが有る思いますね、




私どもにとっては、何か神様のお役に立つと言う事が、

それはどうでもよい様な小さな願いの様に思えるかもしれませんね、




しかし神様の目からご覧になると、やはり神様のお役に立ちたい、

と言う願いほど大きなものは無いのではないでしょうかね、




そしてまた今朝頂きますのは、人間が助かると言う事が第一だと、

人間が助かる、と言う事が第一なのですね、




ですから、全ての信心の稽古、御教え、それらは人が助かる事の為に、

繋がっていなければならないのだと思いますね、




その人が助かると言う事が第一なのですから、一番大きな願いは、

その人が助かる事の為のお役に立たせて頂きたい、




お役に立たせて頂こう、

と言うのがやっぱり大願と言うのではないでしょうかね、




神様の目からご覧になっての一番の大きな願い、

それは、人が助かる為のお役に立たせて頂こう、




と言う事ではないかと思いますね、




今朝のその、人が助かる、人間が助かる事が第一ですと、

その為に御教えも有るわけですね、




一切のものが人が助かる事の為に有る、

勿論、和賀心も、




和らぎ賀ぶ和賀心も人の真の助りの為に有るわけですね、

求めて行かねばならないものです、




教えもその本質は

人が助かる為に有る教えだと、




ところがややもすると、その教えの為に、自らの身を苦しめる、

心を苦しめると言う事が有りますね、




本末転倒になってしまう事が有ります、例えばその教えが有ります、

成行きを大切にしなさい、と言う教えが有ります、




ところがその教えが、教えに縛られると言うのでしょうかね

成行きを大切にする、それは人が助かる事の為に、




幸せになる事の為に大切にするのですけれども、

これが大切に出来ない事が有ります、失敗する事が有ります、




土の心で受けなさいと言われても、土の心で出来ない、

あるいは腹を立ててはならんと言われても、腹を立てる事が有る、




そうすると今度は、失敗した、教えを行じれなかった、

また腹を立ててしまった、また人を責めてしまった、と




自らの心を責める、と言うのでしょうかね、

そう言う事になってしまいますね、




これでは、自らの心の助かりにはなりませんね、

寧ろ自らが自らを攻めて、自らを壊してしまって居る、




助かりから外れてしまって居る様な事にもなりかねませんね、

やっぱり教えはその助かる事の為の教えであり、




教えを行じれなかったからと言って自分を責める様な事では、

かえって神様が、何の為の教えなのか、




自分の身を苦しめる為の教えなのか、

そうではないはずですからね、




本末転倒になってしまいますね、

微妙な所ですけれども、心しなければなりませんね、




教えが行じれないからと言って

横着になってはいけない、




しかし教えが行じれないからと言って、

自分を責めて責めてしまったのでは、助かり様が無い事になります、




その辺の微妙な兼ね合いと言うのが有るのですけれども、

師匠が面白い事を仰って居られました、




例えば、門外不出と言う修行生の修行項目が有るとしましょうか、

それが中々行じれない、




ついつい外に出たい、出たくなる、

そう言う時はもう出てしまった方が良いと、




言わば悶々として過ごすよりも、

もう外に出たいなら出てしまいなさいと、




そして愈々その本気で門外不出を守ろう、

と言うその心根が出来るまでは、




例えばこの御教えを本気で行じよう、

と言うその心構えが出来るまでは、




ある意味やりたい事をやっても、それはそれで良かろうと、

そこからまた次の精進が、神様が用意して下さる事であろうと、




言う様な事を仰って居られましたね、

とにかく教えも人が助かる為に有るわけですから、




その教えで自分を傷つけたり、人を傷つけたりしたのでは、

本末転倒になってしまいますね、




とにかく、人が助かると言う事が第一だと言う事ですね、

そこから外れる様な御教えであったり、




行いであったり、考え方であったり、

であったのでは神様から嫌われる事にもなりますね




どうぞよろしくお願いいたします、




ありがとうございます



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