2022年11月2日水曜日

人の助かりを祈る心が育つこと (2022-11-02)

 今日も和賀心学 (2022-11-02)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


私どもの心の中に人の助かりを祈る心が育って行かなければならない。マイホーム的信心で終始していたのでは愈々の時にその難儀を受け切る事が出来ない。この成行きを土の心で受けるのだと頭では分かっている、しかし己の心がままならない、受け切れない。人の助かりを祈る心が育っていないからである。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 28頁)


ビデオ: https://youtu.be/bWH6UWLKtMk

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/11-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-11-02.mp3


合掌

中原博信

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御神誡




人の不行状を見てわが身の不行状になること




わるいことを見て、

自分まで引き込まれぬよう強い信心が必要である




人の無信心になるのを見て、自分まで不信心になる人がある

連鎖反応をおこすのである




強い信心、と有ります




その強い信心は

どう言う所から生まれて来るのだろうかと思いますね




あるここ数日の成行きから、今朝はある事を教えて頂きました、

その強い信心と言う事にも繋がって来ると思います、




信心をさせて頂き、信心の稽古をさせて頂くと、

私どもの心が愈々大きくなり、愈々豊かになる、




師匠が、ある御信者さんに、問題が起こって来る、

その度に、大きくなる事だよ、豊かになる事だよ、この一言だった、




いつの場合でもこの一言だった、

と言ったような御理解が有りますね、




私どもの心が、その事によって、事柄言わばその成行きによって

愈々大きな心になる、豊かな心になる、




その稽古である訳ですけれども、

その大きな心、豊かな心の内容の一つとして、




私どもの心の中に、人の助かりを祈る心が、

愈々育って来なければならない、と言う事なのですね、




やはり信心させて頂いて、どうでも育たねばならない心、

これは、人の助かりを祈る心だと思いますね、




この、人の助かりを祈る心が育ちませんと、

自分自身の身に何かが起こって来た時に、




それを受ける事が出来ませんね、

やっぱり私ども自分が良ければ良い、




あるいは自分の家族が立ち行きます様に、

あるいは教会が立ち行きます様にと言った様な、




いわゆるマイホーム的な信心になりがちですね、

そしてそこから中々抜け出せません、




これは何も自分自身の事だけではなく、

自分の家族であったり、家の事であったり、




それこそ取次者に至っても、自分の教会の事で止まっておる、

いわゆるマイホーム的な信心ですね、




このマイホーム的な心では、愈々の時受けられません 

それは人の助かりを祈る心が育っていないからですね、




ある教会のお話を伺いましたが、

大変難儀な事が起こって来た、大難儀ですね、




ところがなる程師匠から習っている土の心でそれを受ける事だ、

と分かっている、




分かっているなら、土の心で受ければ良いではないか、

と思いますけれども、それが中々自分の心がままならないものですね、




ここは一つ土の心で治めよう、

受けようとは分かるのですけれども、




中々受けられない、治められないのが

人の世の常と言うのでしょうかね、




ここは土の心で頂くのが本当だ、

この御教えを行じるのが本当だ、




さあここで天の心を、地の心を、

と、それは分かっている、




分かっているけれども、

自分の心が中々ままならない、受ける事が出来ない、




何故か、何故その事柄を土の心で受ける事が出来ないのか、

マイホーム的な信心だからですね




私が修行中に、教会修行中に胃潰瘍の胃が破けました、

それで胃液が体中に流れて、それはもう大変、




正に焼き尽くされる様なと言うのでしょうかね、

焼ける様な、体の中が焼ける様な痛みでした、




その時思いました、もうこんなに痛いなら早く死んだ方がマシだと、

そう思いましたね、




しかしその最後に止まれたのは、

止まる事が出来たのは、




このまま死んでしまったのでは、

師匠に対して相済まない、と言う事でした、




言わばこれがマイホーム的な自分の助かりを願う事だけ、

自分の家族が、教会が助かる、立ち行く事だけを願う信心で




あったならば、もうそんな苦しみよりか

死んだ方がマシなのですね




そしてもう一つ頂きましたのは、

お前が苦しめば苦しむ程人が助かる、と頂きました、




これに救われた様な気が致しますね




このこのまま死んだのでは師匠に対して相済まない、と言う思いと、

お前が苦しめば苦しむ程人が助かる、




さすがにその時は未だ、それならばもちっと苦しんでも良い、

とまでは思えませんでしたけれども、




なる程この苦しみで人が助かるのか、と頂いた所から、

それならば、このまま死んでそれこそ犬死にしてはならないな、




と言う次の元気な心が湧いて来ました、




言わばその起こって来た事柄が、マイホーム的な信心、

私の願いが叶えば良いとか、私が助かれば良いとか、




家族が、あるいは教会が立ち行けば良いと言った様な、

マイホーム的な信心では、愈々の時に踏ん張れないのですね、




もうこんなのは投げ出してしまった方が良い、

こう言う事柄は、出来事はとても受けられませんと、




心で受けられないのです、

そこに人の助かりを祈る心が育っておれば、




よしこの事を一つ

人が助かる為の修行とさせて頂こう、




よしこの事を、ドンと受けて、一徳受けて、

それが人が助かる元にでもなるならば、受けさせて頂こう、




と言う心が湧いて来ないのですね、

それは人の助かりを祈る心が育っていないからです、




何かそれこそ大きな事が起きて来る、

こう言う事はとても受けられない、受け切らない、




そう言う問題でも受け貫いて行く為には、

受け貫く原動力となるものは、




私どもの心の中に、人の助かりを祈る心がどれ程育っているか、

と言う事になりますね、




マイホーム的な信心ではとても受け切らない所が起こって来ます、

そこをドンと受け貫く為には、




私どもの中に、人の助かりを祈る心がどうでも

育って行かなければならない。いなければならないと言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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