今日も和賀心学 (2022-11-27)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
困った時の神頼みと言うが、今朝はその困り事は信心への招待状と頂いた。師匠大坪総一郎師はこの天地金乃神様は「世界中の氏子と話がしてみたい」と仰る、と仰って居られた。本当は氏子の方から積極的に神様へ心を向けて欲しいのだが、中々そうならないから神様が待ちきれずに招待状を出されることになる。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 412頁)
ビデオ: https://youtu.be/A9F5M3fqhdg
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/11-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-11-27.mp3
合掌
中原博信
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御理解 第73節
変人になれ、変人にならぬと信心はできぬ
変人というは、直いことぞ
『変人というは直い事ぞ』
直い事とは本当のこと、真直いことの意
本当のことをなす人を変人と言わねばならぬほど
変人は少ないのである
学生に「勉強と信心はどちらが大切か」というと
勿論「勉強は学生の本分だから」というであろう
けれども、つまるところ
勉強も人の幸せにつながるものでなければならぬ
すると信心はその根本になるものである
信心を先に立てて勉強をとると、人は変人というかも知れぬ
「信心と勉強」「勉強と信心」二つにして一つ、
信心と勉強との対立のない世界がそこから開けてくる
それが信心である
信心とは信ずる心である
信心とは信ずる心であると、
その何を信じるか、と言う所が大切だと思いますね、
この神様はそれこそ万年、億年かかってでも、
人々の幸せを願って居られる神様だと、
何とかして人を幸せにしたい、
と願って居られる神様だと、
ではどこからその幸せが来るのか、
それはやはり私どもの心の中から、
勿論神様のおかげを頂きながら、
そしてまた私どもの心の中から出て来るものだと思いますね、
その幸せと言うもの、そこから縁遠い様な事が有りますね、
そう言う時に初めて私どもは、
それこそ困った時の神頼み、と言われますけれども、
何か困り事が有る、それこそ難儀が有る、
お医者さんから見放された、もう頼る所は無い、縋る所はい、
人からも見放された、と最後に神様に縋ろうと致しますね、
信心をすると言うのでしょうかね、
もっともその神も仏もあるものか、と言われるように、
神様からも見放されてしまった、
と感じる様な時も有るのかもしれませんけれども、
先ずはその困った時、困った事があって、頼るものも無い、
そして初めて神様に頼ろうとする、
今朝はその困ったと言う事が、いわゆる困り事、
それは信心への招待状だ、と頂きました、
正に困った時の神頼み、その困った時、神様に頼ろうとする、
だから神様がその困り事と言う招待状を出されるのだと、
そうしたら氏子が、あぁ困ったと言って神様に頼って来る、
縋って来る、信心をしようと言うわけですね、
ところが本当の所を言うと、
神様は、その困って頼って来るばかりではなく、
困っていない時、いわゆる普通の日と言うのでしょうかね、
何事も無く、全てが順調に行っている様な時、
そう言う時にでも実は信心をしてくれよと、
神様の事を思い出してくれよと、神様の方に心を向けてくれよ、
と願って居られる、
師匠が、この神様は世界中の氏子と話がしてみたい、
と仰って居られる、と師匠は仰って居られましたけれども、
ところが中々人間氏子が、神様の方に目を向けてくれない、そこで
人間の側から見れば、困ったと言う様な事を差し向けられる、
と言うのでしょうかね
そう言う困り事を与えて下さる、与えられる、
そしてそこに人間が神様の方に心を向けようとする、
と言うわけですね、
その今の例えば、困り事、難儀なら難儀、
難儀と言えば一寸大変困った、
その困り方が大きいと難儀と言うように感じるのでしょうけれども、
一寸困った事、その困った事でもそれも神様の御働きだと、
師匠は、難儀は神様のウィンクだとも仰って居られます、
その困り事は、神様の信心への招待状だと、
その困った事を通して心を神様に向ける、
それが、神様からの招待状がなくても神様の所に押しかける、
と言うのでしょうかね、神様の所に目を向けてくれる、
それが本当は神様は願って居られるのですけれども、
中々人間氏子が、それこそ神様の方に目を向けるよりも、
他の楽しい事、
人間として楽しい事の方に目を向けてしまいますね、
そこで、困り事を通して目を向けてくれるように
招待状を出されると言う事になりますね、
その何と言いましょうかね、
そう言う神様の御心を信じてくれよ、と言うわけですね、
よくあれは何ですか、
人の目を引く為に、一寸いたずらをしたりする事が有りますね、
そ言う様な事に通ずるのかもしれませんね、
そういう神様だと言う事を信じる、と言うのでしょうかね、
神様が、こちらに目を向けてくれよ、信心してくれよ、と言って、
その困り事を私どもに与えて下さる、与えられる、と言う事が、
その事を信じられるかどうか、その事を信じて、そして
これは今神様がこっちを向いてくれよ、と仰って居られるのだな、
と素直に神様に縋って行く、いわゆる信心をさせて頂く、
と言う事になりましょうかね、
そう言う人間との神人関係と言うのでしょうかね、
それを神様が求めて居られるのだと言う事ですね、
ですからその神様からの招待状が来てから伺おう、と言うのではなく、
神様からの招待状が来る前に、こちらから神様の方に出向いて行く、
本当はそうあって欲しいわけですね、
ですからどうでもその辺の、神様の、まあ女心と言われますけれども、
そのそう言う神様の氏子にかけられる神心と言うのでしょうかね、
神様心、そう言うものを私どもが、何と言うのでしょうかね、
分かって行かねばならない、それが分かって行くと、
信心もまた別の楽しみ、と言うのでしょうかね、
別の喜びと言うのでしょうか、
そう言うものが出て来るのではないでしょうかね、
それこそ愛するものに振り向いてもらいたい、
と思うのはやっぱり世の常ですよね、
神様もやっぱり、私どもに振り向いて欲しい、
と願って居られるのではないでしょうかね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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