2022年11月23日水曜日

あの人の動きの上に天地金乃神様の御働きが現れて来る様な力有る祈り (2022-11-23)

 今日も和賀心学 (2022-11-23)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


師匠大坪総一郎師は、一切が神愛と教えて下さる。今朝はその一切が神愛を体得する前に一切が神様の御働きと実感しなければならないと、更にその前に一切が修行と頂ける信心の稽古が要ると。先ずは、あの人の動きの上に天地金乃神様の御働きが現れて来るような力有る取次者の祈りのスイッチが入らねばならない。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 43頁)


ビデオ: https://youtu.be/cwcRBD3tYjY

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/11-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-11-23.mp3


合掌

中原博信

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御神訓




生きても死にても天と地とはわが住みかと思えよ




人間は土より出て土に還るといわれる




故に、その道中とても又、土の性根を身につける生き方こそ、

天地人一体となれる唯一無二の融合世界に住むことが出来る




天地の御守護の中にある実感も生まれる




天地の御守護の中にある実感、

と申されますけれども、




その天地の御守護を頂けれる環境になければ、

やはりならないと思うのですね、




誰彼がなる程、信心はせぬでもおかげはやってある、

と言われるおかげは頂けますけれども、




それは誰でも頂けれるのでしょう、

けれども信心をしなければ頂けないおかげと言うのも有るのですね、




ですから信心をしなければ天地の神様の御守護を頂く事が出来ない、

と言う事も有ると思いますね、




今朝のお話は、一寸異論が有るかもしれません、

反論も有るかもしれません、




俄かには、頂き難い事かもしれません、

それは師匠大坪総一郎師が、一切が神愛と教えて下さいます、




ならば、本当に一切が神愛なのか、と言う事になりますけれども、

これは誰の上、彼の上にでも一切が神愛と言うわけにはいかない、




と思いますね、それこそ信心はせぬでもおかげはやってあると、

信心はせぬでも、一切が神愛だと、




誰の身の上にでも起こって来ておるものはその神愛だと、

どうもそうとも言えない様な感じが致しますね、




分かりません、それこそ何処かでは戦争が起こっております、

大変いわゆる難儀をして居られる方達が居られます、




子供が、小さい子供が亡くなっておったりし、

災害があっておったり、




そう言う方達のそこでも神愛か、と問われると、

果たして本当に神愛なのかどうか分かりません、




ただ間違いなく、これは神愛です、とそれこそ太鼓判が押せる、

その神愛とはどう言う環境にある時なのか、




それは一切が神愛と悟り、

その一切神愛を提唱すると言うのでしょうかね、




その取次ぎ、力有る取次者の下において初めて、

それが一切が神愛と言う事なのですね、




言わばその力有る取次者の祈りの圏内において、

一切神愛のスイッチが入ると言うのでしょうかね、




一切神愛のスイッチが入っていない所も、

世界中にはたくさん有ると思います、




その一切が神愛と分かる、その一切神愛と悟った時に初めて、

そこから人間の真の助かりの世界が開けて来ると思いますね、




今朝はその一切が神愛と悟るその手前に、

先ずは一切が神様の御働きだ、と悟らねばならないと、




悟ると言うのか、

実感として感じなければならないと言う事ですね、




そしてその一切神愛の前に、一切が神様の御働きだ、と

その前にもう一つ有るのですね、




一切が修行として頂けれる、そう言う私でなければ、

とても一切が神様の御働きだとは中々頂けない、




実感を持って頂けないと言う事ですね、

先ずは一切が修行だと頂ける、




それこそ何の為の修行か、

人助けの為の修行であったり、




自らの心を磨く為の修行であったり、

御神徳を頂く為の修行であったり、




その手前で言えば、

おかげを頂く為の修行も有るのかもしれませんね、




いずれにしろ、その一切が、

私の身の上に起こって来る事一切が修行だと、




信心の稽古の為の材料だと、そう頂ける、

そう頂けてそこに取り組む時に初めて




なる程一切が神様の御働きだ、私の心を育てる為の一切の御働きだ、

と言う事が本然と分からされる、




そしてそこから初めて、なる程一切が神愛だ、

と合点も言って来るわけですね、




その一切が修行だと、

一切を修行として受ける、と言うそこに、




取次者の、それが一切が神愛として下さる取次者のやはり力が要る、

と言う事ですね、祈りが要ると言う事ですね、




私の身の上に起こって来る事柄一切を、

神様の御働きとして下さる取次者の力が要る、祈りが要る、




と言う事ですね、それこそ嫁姑の問題であったり、

様々な問題が有ります、




その問題が、問題が問題なのです、

例えば、嫁姑、姑の色々な事をされると言うのでしょうかね、




その事がなる程、悪魔の働きだと言う取次者の下では、

その姑さんが働かれるのは悪魔の指図の下に働かれて居る




と言う事になるのかもしれません、

しかしそれが、一切神愛を提唱する取次者の祈りの下であるならば、




その姑の、さんの上に

一切が神愛と言う働きを神様が現して下さる、




その姑の方の動きや、それら一切が神様の御働きとして、

神様の御働きがそこに現れる、と言う事なのですね




その人を通して神様の御働きが現れる、それはやっぱり

力有る取次者が、そこにスイッチを入れなければならない、




祈りと言うものですね、

そこに初めて、なる程ピノキオが動き出すように、




その姑さんが神様の手足となって動かれるようになる、




それまでは我情我欲で、単なる我情我欲で

動かれておったのかもしれませんけれども、




そこに一度スイッチが入ったら、神様のスイッチが入ったら、

神様の手足となって働かれる、




言わばそこに神様の御働きが現れて来る、

御働きとなる事になりますね、




そしてそれが「一切が神愛」を提唱される取次者の下においては

なる程一切が神愛だと言う働きがそこに現れると言う事なのですね、




ここはもうやっぱり取次者の力、祈りの現れ、

その一切神愛を提唱すると言うのか、唱えると言うのか、




そこの取次者の祈りの圏内において初めて、

一切神愛としての神様の御働きが有ると言う事なのですね、




その圏外から外れたら、

一切神愛の働きではなくなるかもしれませんね、




大変微妙な所ですけれども、一切神愛を提唱する、

一切神愛を唱える、その力有る取次者のスイッチが入る、祈りが有る、




そこにおいて初めて、一切が神愛だと言う事ですね、

その為には先ず一切が神様の御働きだと、




その神様が一切神愛として働いて下さる様な方の許で、

信心の稽古をさせて頂かねばならないと言う事でも有りますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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