2022年11月30日水曜日

時間軸の中で見て初めて神様の御働きが、大恩が分かる (2022-11-30)

 今日も和賀心学 (2022-11-30)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


人はとかく今しか見ずに、それがおかげだとかおかげではない等と言う。例えば病気になる、その病気をおかげではない様に思う。ところがその前後を見ると、一番良い時を選んで病気になっている事に気付かされる。神様が御働き下されてあるからである。時間軸の中で見て初めて神様の御働きが、大恩が分かる。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 320頁)


ビデオ: https://youtu.be/kbOfSGjjcL4

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/11-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-11-30.mp3


合掌

中原博信

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御理解 第42節




これほど信心するのに、

どうしてこういうことができるであろうかと思えば、




信心はもうとまっておる

これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、




一心に信心してゆけば、

そこからおかげが受けられる




『これ程信心するのに』というけれども

どれ程神様の仰せどおりにしているであろうか




神様の仰せどおりにするのが「行」

それを頂き抜くところに金光教の行の原点がある




『行』としての布教

神様の仰せどおりに行をされる金光大神




それが外に表出した時、他との摩擦現象を起こし、

時には反発を受け嘲笑をあびせられることもある




「他人が嘲笑う、外見がわるい」

と奥様は反発された、その事に対して、




「私は、人のまわい(世間体)をかまわず、神の仰せどおり、

なにかによらず、そむかず」と、そのご姿勢をくずされなかった




そういう『行』を通して、いよいよご自身の神に向かう心、

ゆるぎなき信心をふかく確認し、自覚せられる金光大神である




(昭和五十七年七月一日金光教徒新聞論説より抜粋)




これほど信心するのにと、

信心をすると言う事が、




例えば神様にお参りをする、手を合わせる、

拝詞信行をする、あるいは御教えを行じる、




と言う色々な信心の稽古の内容が有ると思いますね、




中でも師匠は、五願五行、5つの行、

5つの願い、そして5つの行と教えて下さいますが、




そう言う信心の稽古の中の一つとして、

今朝は、神様のおかげが分かる、と言うのでしょうかね、




今まで気付かなかった神様のおかげに気付かせて頂く、

それも信心の稽古の一つだと教えて頂いたように思うのですが、




その神様のおかげと言うもの、おかげと言う表現よりか、

神様の御働き、と言う表現の方が相応しいと言うのでしょうかね、




そう言う感じを受けております、

その神様のおかげをおかげと知る、と言いましょうか




おかげと言うと何となく、その例えば時間と言うものが有ったら、

その昨日、今日、明日と言う時間が有ったとすれば、




そのある 1点を丁度輪切りにして

取り出した様な感じがするのですね、




例えば、金太郎飴なら金太郎飴のその、切ってその断面を見る、

その断面を見て、これがおかげだとか、おかげじゃないとか、




そう言う感じがするのですね、

言わばその時だけ、例えば病気なら病気をすると致しましょうか、




そしたらその病気をしたその、その病気自体がおかげだとか、

おかげでないとか、おかげを頂いたとか、頂いていないとか、




それは勿論人間の側のサイドから、

自分にとって都合の良い事はおかげだと言うわけですね




そう言うある時点のある一部分を切り出して、

時間軸の中のある一部分だけを切り出して、




それがおかげだとか、おかげではないとか、

言う事を、何と言いましょうかね、




意識すると言うのか、言い出すと言うのか、そんな感じですね、

ところが、神様の御働きをずうっと、




神様は、そのある一点の時間だけに見たのでは、

神様の御働きと言うものが分からない




例えば、今病気をして居るとしても、

それがもしその病気が 5日前であったらどうだろか、




これが 10日後であったらどうだろうか、と思う時に、

一番良い時期に、一番良い時にその病気をさせて下さってある、




と言う事に気付かされるのですね、実は気付かされると言うか、

そこを気付かなければならないわけですね




してみると、その一番良い時期に

神様が病気をさせて下さってある、




例えば、その出来事なら出来事が、その全ての色々な事を整えて、

その一番良い時にその事が起こって来ている、




と言う事が、よくよく考えると分からされるわけですね、

そうすれば、ああおかげだな、おかげを頂いて居るな、




となるのですけれども、その病気をして居る、

と言うその今病気をして居る、




その今の時点だけの、その病気の事だけに目を向けると、

何と困った事だ、難儀だなと感じてしまうわけですね、




思ってしまうわけです、

今だけを思うと、おかげを頂いていないように思うてしまう




しかしそれが、時間軸の中で考えると、一番良い時期に、

その病気を頂いて居ると言う事に気付かされるのです




そしてそのなる程、神様のそれこそ手の込んだ御働きの中の今だ、

と言う事になるのですね、




してみるとそれが今病気をして居ると言う事は、何と神様の御働きの、

それこそ過去、現在、未来の神様の御働きの中の、今の一コマであり、




それこそ神様がお膳立てをして下さって、

それこそ準備をして下さっての今だと、




今の病気だと言う事に気付かされれば、

その病気とてもおかげだと、言う事になるのですけれどもね




ですから、その時間軸と言うのでしょうかね、

それを、今だけを切り取って、おかげだ、おかげではない、




と論ずる所に、神様の本当の過去、現在、未来を通しての

神様の御働きと言うのが見えて来ない、分からない、




その事を分からなければならない、

神様が過去、現在、未来を通して神様が御働き下さってある、




そう言う神様の御働きの中の今だと、

言う事を分からなければならないのですね、




そしてそれが分かった時に、なる程神様のおかげを頂いて居るな、

と、おかげと言う表現よりも寧ろ、




なる程神様の御働きを頂いておるな、

神様が御働き下さってあるな、




と言う言わば、神の大恩が分かる、

と言う事に繋がって来るのではないでしょうかね




如何に神様の御働きを頂いて居るか、

如何に神様が御働き下さってあるか、




その事を分からせて頂かねばなりませんね、

その事が分かる信心をさせて頂かねばならない、




その為には、ただ、

今と言う時間だけを輪切りにして見るのではなく、




過去から、そして未来に続く時間の中での今だと言う事を、

再認識させて頂かねばならないと言う事ですね、




その時に初めて、なる程神様が御働き下さっての、有る今だと、

神様の御働きを頂いて居る、神様が御働き下さって居る、




と言う事を実感として感じさせて頂かねばなりませんね、それがまた、

その事が分かる事が、信心の稽古の一つだと言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



2022年11月29日火曜日

痛い、けれども有難いの御礼が天地金乃神様に通う (2022-11-29)

 今日も和賀心学 (2022-11-29)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


奇跡的なおかげを頂くと言う。その奇跡的なおかげや、お医者さんからも見放された病人が九死に一生のおかげを頂く、そう言ういわゆる好都合なおかげを頂く時の有難さでは世の光にはならない。痛い中にあっても神様の御心に触れ御神働きを実感した時に頂く有難さ御礼心であって初めて世の光ともなり得る。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 132頁)


ビデオ: https://youtu.be/VhCskWBD7ag

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/11-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-11-29.mp3


合掌

中原博信

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御神訓




若い者は本心の柱に虫を入らせなよ




信心は筋金入りでなければならぬ

筋金には虫も寄りつけぬ




目もと口もと耳もとに御用心

信心の心で見ること聞くこと味わうことです




俗には「見ざる言わざる聞かざる」と申しますが、

信心する者は見ても聞いても迷うことがあってはなりません




迷う事があってはなりませんと、

さあ何を迷うのか、




それはやっぱり困った事が起こって来た時、

それを困った事としか捉えられない、それが迷いですね、




神様の御働きと頂けない、

それが迷いだと思いますね




信心は有難くなる稽古だと

教えて下さいます、




そしてまた師匠は、日本一有難い私になろう、と

そこを目指したと仰って居られました




その有難い、と言う事を目指すわけですね、

信心は位がつくほど有難くなるものだと、




歳が取るほど有難くなって行くと、




その有難いを、それこそ 10万遍ですか、100万遍ですか、

唱えたら癌が治ったと言う方も居られますね




その有難いと言う心が天地に通う、

そこに天地の御発動が有るわけですね




それこそお天道様や、雨が降って来る、お湿り、

そう言うものも当たり前と思っていたものが、




いや、これとても神様の御働きであった、

大変なるお恵みであった、と分からされる、




髪の毛、抜けて行く髪の毛 1本、1本に、

その髪の毛の恩を感じると言うのでしょうかね、




細胞の一つ一つに恩を感じる、今まで恩とも思っていなかったものに、

恩を感じて、そこに有難いと言う心が湧いて来る、




その有難いと言う心が、その対象が問題ですね、

師匠大坪総一郎師は、




その自分にとって都合の良い事が起こって来た事、

その事に対して有難いと感じる、これは誰でもすぐそうですね、




自分の好きなものを頂いたら有難い、

それこそお金を儲かったら有難い、何か願い事が叶ったら有難い、




自分にとって都合の良い事が起こって来る、

その事に対して有難いと言うのは、これは誰でも言えますね、




誰でもそう感じますね、九死に一生のおかげを頂く、

もうそれこそお医者さんからも見放された、治療の術も無い、




そして神様にお縋りした、それでおかげを頂き、

九死に一生のおかげを頂いた、ああ何とまあ有難い神様だ、




とそこに有難さを感じる、言わば奇跡的なおかげを頂いた、

それで有難いと言う、




こういう有難さは、それこそそう言うおかげを頂けば、

誰でも有難いと言いますね、




死にそうな人が命拾いをして、それで有難い、

有難くない、と言う人は少ないでしょうね、




やっぱり命拾いをして、

難から逃れられて有難いと言う、




しかしその自分にとって都合の良い事が起こって来た事に対して、

有難い、と言う、




そう言う有難さを千遍万遍重ねたからと言って、

それは世の光にはならない、と言うのですね、




自分にとって、それこそ好都合だと言う様なおかげを

千遍万遍受けたとしても、それは世の光にはならないと言うのです




真に世の光になる、

それこそ神様の御心に通う有難さとは、どこなのか、




自分にとって都合の良い事が起こって来た事に、あるいは、

今まで分かっていなかった事が、実は都合の良い事であったと




言う事に気付いて、有難いを言う、

それは勿論神様に御礼を申すと言う事は大切です、




もしも奇跡的なおかげを頂いても、これはフが良かったのだろう、

そう言う時期が来ていたのだろう、




と神様のおかげを感じないならば、それは言語道断ですけれども、

そう言ういわゆる奇跡的なおかげを頂いておる事に御礼を申す、




そう言う信心では、これは浅いと言うわけですね、

いつまで経っても世の光にはならない、




神様の御心に、琴線に触れる有難さではない訳ですね、

私どもが目指す、特に取次者が目指す有難さ、




それは不都合な時、自分にとってどう考えても不都合だ、都合が悪い

と言う様な中にあって、そこに有難いと言う答えを出すと言うのか、




そう感じると言うのか、その不都合な事が起こって来た時に、

そこにそれこそ、そこに込められた神様の御思い、




御働きと言うものを実感させて頂き、

そこに有難さを感じる、




それは例えて言えば、痛い、痛いけれども有難い、

と表現されます、その有難さですね、




我が身をつねればそれは痛いのは痛い、

そこに、あぁこれはつねって痛いのは命が有るから痛いのだ、




だから有難い、と言うのも確かに有りますけれども、

そこ止まりでは、まだ光とはなり得ませんね




そのつねって下さる神様の御心、御働きが分かり、

そのつねって下さる神様に対して有難さを感じる




痛い、けれどもそこに込められた神様の思い、

神様の御働きが有難い、となった時に初めて、




それこそ一切のものに御礼が言えれるようになる事でしょうし、

神様の御思いに対しての有難さですから、




それは、我が身にとっては不都合かもしれない、

しかし神様の思いを思うた時に、




神様の御働きを感じた時に頂けれる有難さですから、これは

天地に通わないはずが無い、神様の御心に通わないはずが無い、




そこに初めて、光が頂けれる、

世の光ともなる、と言う事なのですね




自分にとって痛い、痛いと言う時に

神様の御働きを御働きとして実感して、そこに有難さを感じる




表現すれば、痛いけれども有難い、と言う事でしょうかね

それがその有難さが初めて世の光ともなる、




そこから初めておそらく、

人が助かると言う事にも繋がって来るのでしょうね、




それは、人が助かる、

神様がそう言う助かる働きを現して下さるようになる、




と言う事ですね、

そこの一線を超えると言う事が要りますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



2022年11月28日月曜日

人が説く教えではなく、天地金乃神様から直伝の教えでなければ (2022-11-28)

 今日も和賀心学 (2022-11-28)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


世の中には様々な教えが有ります。今朝は一寸した成行きから、天地金乃神様と直結した神様直伝の教えに取り組むのでなければ、御神徳にも真のおかげにもならないと教えて頂いた様に思います。誰それの教えと言った様な人が説く教えを如何に身に着けても御神徳にはならないのです。神様からの教えでないと。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 44頁)


ビデオ: https://youtu.be/_J68REgQPyY

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/11-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-11-28.mp3


合掌

中原博信

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御神訓




天に任せよ、地にすがれよ




人間は勝手なもので、

困った時だけ神にすがり、神にまかせもきらぬ




ろくろく教祖の教えも聞かずわからぬでは、

神まかせにもなれぬ、先ず教えを身につけよ




雨風も、天にまかせて、地にすがり

忍べ折れるな、若竹の節




先ず教えを身に着けよ、

と有ります




今朝は一寸した成行きの中で、

この教えについて教えて頂いたように思います




それはどう言う事かと言うと、私はいつも朝起きさせて頂き、

直ぐにスマホの充電を始めます




言わばその何と言いましょうかね、

スマホにその充電器からのコードを差し込むわけですね




そしてこのお話が終わる頃には、

大体 90何パーセントかのチャージが出来ております




その事なのですけれども、今朝もやはり起きさせて頂き、

そのケーブルをスマホに繋ぎました




家内のも有りますから、

2つケーブルに繋ぎますね、




そして先ほどお話の一寸前に、

どれくらいチャージが出来たかなと思って見てみました




家内のは大体順調に出来ておりました、

ところが、私のスマホの分が充電出来ているどころか、




充電始めの頃よりか、パーセントが下がっておりました

全く充電されていなかったわけですね




どっか壊れたのだろうかとか、何かあったのだろうかと、

よくよく見てみました、




そうしましたら、その充電器に繋がっている、

いわゆる充電器が有るわけですね、




そこからまたケーブルが出て、

そのケーブルでスマホに繋ぐわけですけれども、




スマホにはちゃんと繋いでおったけれども、

その充電器に繋ぐ、そこの接続がしてなかったのですね




言わばそのスマホに繋いだケーブルが、

大元の充電器に接続されていなかったのですね




これで、ああ神様がこれを教えて下さったのか、

今日はこの事をお話しせよと言う事なのか、




と何となくピンと来ました、

そしたら今朝のこのミニ御理解でした、先ずは教えを身に着けよと、




どう言う事かと言うと、そのいわゆる教えと言うものが有ります、

世の中にはたくさんの教えが有ります、




孟子の教えであったり、孔子の教えであったり、

誰彼の処世訓と言うのでしょうか、であったり、




家訓と言うのであったり、色々な偉い人達が教えをされた、

その教えが有ります、道徳的なものも有ります、




ところがそれらの教えが、人間が考え出した教えであったのでは

その人間が考え出した教えを如何に行じた所で、身に着けた所で、




また身に着けようとした所で、

本当の御徳にもおかげにもなって来ないと言う事ですね




言わば、神様に線が繋がっていない、

その見せかけではないでしょうけれども、




確かにスマホに差し込む、その差し込む所だけは同じなのですね、

だから、ついついスマホに差し込みますけれども、




その元になる所が充電器に繋がっていない、

言わば神様に繋がっていないと言うわけですね




ですからいつまで経っても充電はされません、

寧ろ減って行くばかりです、




言わばその教えがどこから出たのか、

それこそ人間の頭の中で考え出した思想であったり、




哲学的な教えであったり、勿論宗教的な教えであっても、

それが人間の頭の中からひねり出されたと言うのでしょうかね、




それでは、如何にそれを行じたからと言って、

天地には、神様には通わないと言う事ですね、




神様の御信用を頂く事は出来ないと、




人間の頭で考え出した教えをどれ程行じても、身に着けても、

それは天地には通わない、御神徳には繋がらないと言う事なのですね




神様から出た、神様が教えて下さる御教えであって初めて、

その御教えを身に着けた時に、行じた時に、天地に通う、




神様の御信用にも、また真の徳にも繋がる、

と言う事なのですね




そこのその教えが大本がどこから出たものなのか、

これをやはり吟味すると言うのか、確かに神様の仰せだと、




神様が教えて下さった、神様が語って居られる、

人間に求めて居られる神様の御教えだと、言う所が大切ですね




その御教えが、それこそ教祖様が教えて下さった神様直伝の御教え

だからこそ、その御教えを身に着けようとする、身に着けた時に、




神様の御神徳も、真の御徳も、

それこそおかげも頂く事が出来ると言う事なのですね




これはまた取次者も注意せねばならない所ですね、

自分が考え出した教えであったりしたのでは、何の役にも立ちません、




神様直伝の教えでなければならない、

と言う事ですね




そうそう昨日は一つ、師匠が面白い事を頂いた、

と言って語って居られましたが、




面白いと言われたかどうか分かりませんが、

私はそう感じたのですが、




例えばいわゆる私どもがおかげと言いますね、

いわゆる御利益ですね、




自分の願い通りになる、その自分の願い通りになった事を有難いと思う、

これは浅い信心だと、そう言う有難さはですね、




それに対してもう一つ、自分の思い通りにならない時、

その自分の思い通りにならない時に、神様の御心が分かり、




その神様の御心に触れて、そこに感じる有難さ、

それが深い信心だと、言う様な事を仰って居られましたね、




そしてその、浅い信心、深い信心、その両方が出来て、

そこから頂けれるおかげであって初めて、真のおかげだと、




言う様な表現をしてあったと思いますね、

後ほど正確なお話を皆さんにも聞いて頂きたいと思うのですけれども、




あぁ今、お勇みですね、

やっぱりその師匠が教えて下さる、それが神様直伝の教えである、




その神様直伝の教えをやはり頂かなければ、

そしてそれを身に着けなければ、身に着けようとしなければ、




値打ちが無いと言うのか、御神徳には繋がらないと言う事ですね、




どうでも神様直伝の教えを頂き、その直伝の教えを

身に着けようと精進させて頂く、それが大切だと言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます