2022年5月2日月曜日

この世に魂を磨きに来たのだと言う事を悟ること (2022-05-02)

 今日も和賀心学 (2022-05-02)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


高校生の頃、悟りを開くと言う事に憧れ、坐禅を組み坐る真似事のような事をしていたように思う。悟りが開けた世界はどう言う世界だろうかと思う、何をどう悟るのかと。今朝頂くのは、人間はこの世に魂を磨きに来たのだと言う事を悟ることだと頂いた。全ての人々がこの悟りを開かねばならない。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 58頁)


ビデオ: https://youtu.be/RLQ5AgI4uC4

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合掌

中原博信

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御神訓




ご地内をみだりに汚すなよ




金光教信者の常識です




ダイヤは 価値ある宝石ですが

その大小で値打が違うように




金光教が明教というても

頂き方の比重が 明教としての値打を現わすことになる




大地の尊厳

如何に頂いておるか 確かめてみる必要がある




ご地内をみだりに汚すなよ ですか




ご地内を汚す これはご地内とは自らの心と

頂くべきではないでしょうかね 自らの心を汚すなよと




本当はその反対に自らの心を汚すのではなく

清めて行くと言うのでしょうかね




そう言うその為の信心である

と言う事なのですけれどもね




今朝頂きますのは

私どもが悟りを開くと言いますけれども




私もその若い頃 高校生の頃ですか

悟りを開くと言う事に大変何か惹かれましたね




色々なその宗教によって違うのでしょうけれども

ある宗教では しかもそのある一派ではいわゆる坐禅ですか




坐禅を組んでその悟りを開く

何か特別な境地に入ると言うのでしょうかね よくは分かりませんが




そう言うその坐禅を それこそあれは達磨様でしたか

面壁三年とか 失礼面壁九年ですか




面壁九年とか有りますね その坐禅を組んで心に悟りを開く

それがいわゆる助かった状態なのでしょうね




その悟りを開くとか あれは何でしたか覚醒ですか

と言った様な事を言うと思いますが




その私どもが悟りを開くと言う事は

何をどう開く事なのだろうかと思いますね




そして誰もがその助かりの為の悟りを開くべきだと思うのですね

また開かなければならないと思うのですけれども




それこそ御道に御縁を頂いて

どう言う悟りを開くのか




どう言う悟りを開いたら良いのか

ではその悟りとは一体何か 何を悟るのかと思いますね




今朝はそれを私どもが それこそこの世に生を受けて何をなすべきか

そこを悟ると言うのでしょうかね




教祖様の御理解にも有ります

信心は本心の玉を磨くものぞやと




師匠は この世には魂を磨きに来たのである

と ここを悟ると言う事だと思いますね




ただ教えられたから ああなる程そうかなとは思います

なる程この世には魂を磨きに来たのだな 心を育てに来たのだな




と教えられて そうだなと言う段階から 自らの心の中に

なる程確かにそうだ と合点が行くと言うのでしょうかね




やはり一番良い表現で言えば

悟ると言う事ではないでしょうかね




そうだこの世には魂を磨きに来たのだ と言う悟りを開く

そこが大切だと言うのではないでしょうかね




そしてもし神様が安心して下さるとすれば




この その氏子が 確かにこの世には魂を磨きに来たのである

心を育てる為に 毎日の出来事があっているのだと




そう言う悟りが開けた時

神様が本当の意味での安心をして下さるのではないでしょうかね




その悟りを開く 師匠の御理解にも 悟りを開くまでの修行と

悟りを開いてからの修行と言った様な表現が有りますね




悟りを開く為の修行 そしてまた悟りを開いてからの修行

その悟りを開いたからと言って修行が無くなる訳ではありませんね




ある宗教などでは何か悟りすますと言う様な 一遍悟りを開いたら

それで何もかもが分かってしまって上手く行くと言うのでしょうかね




そんな感じが致しますが

そうではない様ですね




悟りを開いてからの修行 それは修行の内容と言うのでしょうか

取り組み様が変わって来る




それは心が助かって そしてそこからの修行と言う事になりますから

また次元の違った修行になって来るのでしょうね




しかし先ずはその入り口として その

この世には魂を清めに来たのだ 磨きに来たのだと言う悟りを開く




そこまでは行かせて頂きたいものですね




そしてそこから更に心を磨いて行くと言う事は

また限りが無い事かもしれません




限り無い精進がそこから有るのかもしれません

しかしそれはもう 嫌々する修行ではなく 楽しい修行 有難い修行




それこそこちらから望んででも修行をさせて頂こう

と言う修行になるのだと思いますね




その悟りが開けないから

難儀な目にあっていると言うのか 難儀と感じてしまう




その悟りが開ければ なる程同じ事が起こって来ているけれども

もうそれは決して難儀ではない訳ですね




それこそ心を磨く為の修行として

楽しく 有難く 頂いて行く事が出来るのではないでしょうかね




どうでもこの世には魂を磨きに来たのだと教えて頂けば

なる程そうかなと分かる だけではなく




その事がなる程確かにそうだ と合点が行くと言うのでしょうか

悟りが開けると言うのでしょうかね




その悟りが開けると言う所まで高めて行かねばならない

と言うのでしょうかね




どうでもこの世には魂を磨きに来たのだ と悟らせて頂けれる

そう言うおかげを頂きたいと思いますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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