今日も和賀心学 (2022-05-26)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
教祖生神金光大神様は、おかげは和賀心にあり、と御教え下さる。ところがその和らぎ賀ぶ和賀心と言うのがもう一つ具体的に分からなかった。今朝は、神様に有難うございますと言える心が和賀心と頂いた。なるほど天地金乃神様に有難うございますと御礼を申せて居る時こそ和賀心の時であると。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 74頁)
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合掌
中原博信
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御神訓
信心する人の真の神徳を知らぬこと
天地金乃神はわれわれ人間の本体の親であり
人はみな其の神徳の中に生かされている氏子であります
神をはなれては生き得られぬものであります
氏子の信心によって神の働きを現わすのです
神と氏子は親子の関係でありますから
親孝行の心で信心すれば神の信任を厚くすることが出来るのです
それを人間が神様から受ける神徳
と言われております
石橋松次郎先生おことば
神徳は神さまの御信用じゃから
神徳は神様の御信用
その神様から信用して頂けれる私になる事だと
その神様から信用して頂ける
信用して頂けれると言うのは
ある意味頼れる 頼り甲斐がある この人に任せておけば大丈夫 と
言って下さる様な 思われる様な私どもになると言う事だと思いますね
そしてまたそこには神様が安心して下さる
この氏子ならもう大丈夫と安心して下さる
何を安心して下さるのか
それは私どもがいわゆる人間としてこの世に生を受け
そして様々な出来事の中に 難儀を感じると言うのでしょうかね
神様が私どもの心を育てる為に
様々な ある意味人間の側からすれば試練
いわゆる試練と言うものかも知れません
そう言う様々な事柄 出来事の中を通させて頂きながら
ただ出来事の中を通り そしてそのいわゆる困った出来事から
逃れられる 抜け出せる あるいは逃げ出せると言うのではない
その事柄を通して
私どもの心を愈々育てて行く
この私どもの身の上に起こって来るその出来事 事柄
成行きによって自らの心を磨いて行くのだ 心を育てて行くのだと
そこに心が定まった時 神様がこの氏子はもう大丈夫
と安心して下さるのではないでしょうかね
私どもの心が定まらないから
今の難儀から逃れたい 逃げ出したい 厄除け祈願とか有りますね
厄除け祈願をする様な間は駄目ですね
その嫌な事から逃れようとしている訳ですから
とても神様が安心して下さるとは思えませんね
例えどう言うものが起こって来ようと その事をドンと受けて
よしこの事で心を育てるぞ 一回り大きくなるぞ
愈々豊かな心になるぞ
神様が願われる心を体して行くぞと
その事柄を通して その成行きを通して
いわゆる自らの心に向かうと言うのでしょうかね
改まって行くぞと その成行きを通して
起こり来る事柄を通して自らの心を育てる
そこに腹が決まった時
神様が安心して下さるのではないでしょうかね
今朝頂きますのは
その神様に有難うございますとお礼を言える時 それが和賀心だと
確かになる程そうだなと言う感じが致しますね
おかげは和賀心にありと 和らぎ賀ぶ和賀心
その何か事が起こって来る そう言うどういう中にあっても
心が和らいで居れ 賀んで居れる心
その和賀心を持つ事は中々難しい様な感じが致しますね
和賀心とは一体どう言う心だろうか と私も思って居りました
一体どうしたら
その和らぎ賀ぶ和賀心と言うのを頂けれるのだろうかと
何か嫌な事が有ると 心がやはりめげてしまう
とても和らいで居れるとか 賀んで居れると言う段階ではない
逃げ出したくなる こんなのは嫌だと思う
それこそ厄除け祈願と言う事になったりするのでしょうね
ところが若しそう言う何か事が起こって来た時でも
よしこれで一改まり出来るぞ
よしこれで心を磨くぞ と言う事になると
その嫌な出来事が起こって来た事自体が有難いものとなって来ますね
言わば 難はみかげと言われますけれども
その難を通して心を育てる事が出来る となった時に初めて
その難がみかげである訳ですね
あの塞翁が馬ですか
禍福は糾える縄の如しと
禍がある そしたら福が来ると言うそう言う意味に於いての
難はおかげと言う事ではないと思いますね
禍福は糾える縄の如しと言う様な程度の
難はみかげと言う事であるのではそれは本物ではありませんね
いつ如何なる 何が起こって来ても
それがおかげだと思える 実感出来れる心を頂く
その為には 一切合切を通して自らの心を育てるのだ
とそこに腹が決まった時に
例え難儀な様に思えるけれども
その難儀を通して自らの心を磨いて行く
いわゆる魂を磨き 清めして行く
と言うその事に活用すると言うのでしょうかね
利用する 使う訳ですから 例え何がどんな事が起ころうとも
そこにお礼が言えれる
そしてしかもそれが神様の御働きであると言う事を実感しておれば
正に難があった時にでも
神様の 私の心を育てて下さろうとする働きとして
神様に対して有難うございますとお礼が言えれる心が湧いて来る
なる程 神様に有難うございますとお礼が言えれる時
それは和らぎ賀ぶ和賀心を頂いている時だなと言う事になりますね
何も和賀心と言うのが 今までは
何か遠くに有る様なものに思って居りましたけれども
あの幸せの青い鳥ではありませんけれども
意外と身近な所に有るのかもしれません
それは私どもが 神様 有難うございますとお礼を申せて居る時
それはもう和賀心なのだと言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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