今日も和賀心学 (2022-05-06)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
この世には魂を磨きに来たのである、心を育てる為に今があるのだと心の目が開かれなければこの世での営みの値打ちが半減する。心の目を開かねば。ではどうしたら心の目は開けるか。棚からぼた餅的に目が開ける事は極めて稀。やはり毎日毎日繰り返し繰り返しより真実の御教えに触れ続けて初めて開ける。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 195頁)
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合掌
中原博信
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御理解 第1節
今 天地の開ける音を聞いて 目を覚ませ
病気や難儀のつづく時 今こそ天地の開ける音を聞くときであるが
信心にならぬから眼がさめぬ
眼をさますということは大真理の喝破である
本当の本当をわかることである
教えたから 習うたからわかるものではない
一心の真心 不乱の信心が必要である
一 湯川安太郎先生は 神さまが御主人 氏子は番頭
一 安武松太郎先生は 一切が神さまの御物
一 私は 一切が神さまの御事柄と悟った
それぞれ天地の開ける音を聞いて眼をさましたのである
そこから限りないおかげの道が開ける
今 天地の開ける音を聞いて 目を覚ませ と
目を覚ませと仰って居られますね
さあどう言う目を覚ますのか
目を覚ましたら何が見えるのか
やはり私どもは目を覚まさないから
と言うのでしょうかね 真実の世界が見えていない
真実の世界を見る為には
やはり目が覚めなければならない
ある意味それは覚醒と言われますが
悟ると言う様な事かもしれませんね
何を目を覚ますのか 私どもがそれこそ目が覚めないから
必要でもないものを必要と思い
良いものを 何と言いましょうかね
本当の良さに気付かないと言うのでしょうかね
一番目を覚まさなければならない事は
やはり私どもがこの世に生を受けた それは心を磨きに来たのだ
魂を磨きに来たのだ と言うそこに目覚めなければならない
と言う所ではないでしょうかね
その肝心な所に目が覚めない
ですからどうしても いわゆるおかげ信心と言うのでしょうか
信心させて頂き その自分の願い通りになる事 思い通りになる事
或いは自分の夢が叶う 願いが叶う
ただそこだけに焦点が置かれている
と言うのでしょうかね
自分にとって都合の良い様に事が運ぶ
その事だけに願いを置いていると言うのでしょうか
それはやっぱり真実の事に目が覚めていないからだ
と言う事になりますね
ではどうしたらその目を覚ます事が出来るのか
これはやっぱり人を起こす為には
揺り動かしてでも起こさねばならない時も有る
その私どもの目を覚ましてくれるもの
それはやはり難儀と言うものかもしれませんね
いつも自分の思い通りに事が運んだり その何も困った事も何も無い
いわゆる平穏無事と言うのでしょうか
そう言う時には そのままの状態で良いと思いますから
いわゆる目が覚める事はない
やはり目を覚まさせる為には
それこそ叩き起こしてでもと言われる様に
そこに刺激がなければ
目を覚ます事は出来ない
やはり自然に目覚めると言う事も有るのでしょうけれども
やっぱり目が覚める為には何かの刺激が要る
その目覚ましを鳴らしたり 誰かに起こしてもらったり
外からの刺激があって初めて目が覚めると言う事が多い様に思いますね
一部の人にはそれこそ自然に目が覚める
と言う事も有るでしょうけれども
大概はやはり外からの刺激によって目が覚める
その私どもを目覚めさせてくれるもの
それが今起こっている ああ困ったなあ どうしようかなと言った様な
いわゆる難儀でもあろうと思うのですね
その難儀が有るからこそ その難儀に連れられて信心を始める
と言う事も有りましょう
そして教えを頂く
その事によって心の眼が開けて来る
やはりその難儀が有ると言う事と同時に
またこちらの方がより真実だと言う 真実の事を聞かせてもらう
なる程この世には魂を磨きに来たのだと
心を育てる為に来たのだと
そう言うお話を頂かなければ
ただお願いして自分の思い通りになった
と言うそれだけの その体験だけの積み重ねでは
心の眼が開けると言う事は難しいですね
確かに有るのかもしれませんけれども
それはほんの僅かの人ではないでしょうかね
大概は目が覚めませんね
目を覚ます為には 外からの刺激が要ると同時に
またより真実の事を教えてもらわなければ
その真実の事を教えてもらう より真実の事を教えてもらうからこそ
あぁなる程そうだったのだと目が覚める
と言う事になりますね
やはり目を覚ます為には
教えを頂かなければならない
そしてその教えを頂こうとする
そのキッカケとなるものがやはり難儀であったり
何かしらそう言う外からの刺激である場合が多いですね
何も無いのに自らそれこそ求めて目を覚まそうとする事は中々難しい
先ずはその目を覚まさせようとするその働きに会う事
そしてその働き いわゆる難儀でしょうね
その事を通して ただその難儀が解決したと言うだけでは
目が覚めた事にはなりませんから
その難儀を通してより真実の事
その難儀を通して心を磨く事だ と言うより真実の事を教えて頂いて
なる程そうだと合点する そしてそこに心の眼が開けて来る
そう言う体験を積み重ねて行く以外有りませんね
為には先ずは より真実の事を聞かせてもらうと言う事が
どうでも必要不可欠と言う事になりますね
ですから日参聴教と言われる毎日お参りして 毎日教えを頂く
このやっぱり毎日教えを頂くと言う事があって初めて
ある日突然かもしれませんけれども
目が覚めると言う事に繋がるのではないでしょうかね
教も聞かず 行ぜずでは
いつまで経っても目が覚める事は有りません
目を覚ます為には やっぱりそれこそ居眠り半分でも良いから
教えを頂く その教えを頂き続ける中に
ある日突然心に染み込んで来る 目が覚める事が有るものですね
ですから先ずは毎日教えを頂く
分かろうと分かるまいとに関わらず
毎日教えを頂くと言う事が大切なのではないでしょうかね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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