今日も和賀心学 (2022-05-23)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
師匠大坪総一郎師がある日の研修で、修行生の先生の朝の御理解の纏めの発表の時、師匠は身の上に起こって来る事柄を右になろうが左になろうが受け貫かれたと言う様な表現に対して、そこに「修行として」と一言付け加えて下さいと仰って居られた。師匠は修行として起こり来る事柄を受け貫かれたと言う事。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 344頁)
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合掌
中原博信
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御理解 第50節
とかく 信心は地を肥やせ 常平生からの信心が肝要じゃ
地が肥えておれば 肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ
養素拝山
心を養う素は 難儀そのものを拝んでうける修行に徹することである
ご神願がわかり 神愛を悟ることが出来る
筋金入りの信心とは この神愛を頂けたとき
心を養う素は
難儀そのものを拝んでうける修行に徹することである
と 修行に徹する
この修行精神と言うのが大切だと言う事ですね
師匠はやはりその修行精神と言うのが旺盛であられたのだなと言う事を
先日の研修のお話を頂いて居りましたら 分からされましたが
それは大変微妙な所でしたけれども
そのいわゆる師匠の信心が一変されたのは
これからはそれこそ右になろうと
左になろうと一切を受けさせて頂きますと
その受ける
自分の身の上に起こって来る事柄を受ける
その事を修行とさせて頂きます
と言うその修行として受けて来られた と言う事なのですね
なる程後々には その例えば成行きと言われるもの
私どもの身の上に起こり来る事柄 それが神様の御心の現れであり
言わば神愛の現れであると言う事になるのですけれども
最初っからそうではなかったと言う事なのですね
そしてそこを強調して居られました
ある修行生の先生が その朝の御理解の纏めで
言わば師匠大坪総一郎師が そのいわゆる身に
身の上に起こって来る事柄を それを受けて行かれた
と その受けて行かれたと表現して居られたのですが
師匠はそれを いやそこは違うと
そのいわゆる成行きを
身に起こって来る事を受けて来た のではないと
その表現では表現が足りないと言う訳ですね
ただ受けて来たのではない
その事を 修行として 受けて来たのだと
その 修行として 事柄を受けて来たと そこの修行として受けたと
言う事を付け加えて下さいと仰って居られました
そこで改めて
言わばなる程 信心修行
それこそそれまでは直信先覚のなさったあらゆる修行をさせて頂いた
けれどもそれでもおかげにならなかった
そこで思い付いたのが
それこそ身の上に起こって来る事を受けて行こう
と その身の上に起こり来る事を受ける事を
修行とさせて頂こうと 修行として受けて来たと
そこを言わば その修行として受ける
と言う所をその文言と言うのでしょうかね
それを外してはならないと
それを付け加えて下さいと言う事でした
大変微妙な所ですけれども
師匠の信心の上に於いて信心修行と言うもの
その何と言いましょうかね
ある表現に
その和らぎ賀ぶ和賀心を頂こうと言うのに
修行もせずに頂こうなんて それは虫が良すぎる
と言った表現をされた事が有りますね
師匠にとって信心をさせて頂くと言う事に
修行と言うものは もう付き物と言うのか 当たり前だったのですね
やはり何かを求めるでも お金を出して買う
500円払えば 500円のもの 1000円払えば 1000円のものが来る
ですから修行をすれば その修行をしただけのものが
神様が返して下さると言うのでしょうかね
その修行に応じたものを下さる と言う様な 元来が商売人ですから
そう言う商売人的な感覚なのかもしれませんね
とにかく師匠が その身の上に起こる 起こって来る事
その事を受けて来たと言う ただ受けたのではない
修行として受けたのだと
信心修行として受けたのだと
そのこれは私どもの心の持ち具合ですね
ただ受けると言うのではない
これを修行として 信心修行として受けさせて頂こう
と言うその心づもりと言うのか 何でしょうかね
心構え言うのでしょうかね それが大切だと言う事であり
そこが信心の分かれ目となるのかもしれませんね
それこそ神様が私に求め給う修行として
その事を私も 私にかけられた神様の願いが成就する為の修行として
身の上に起こって来る事柄を受けて行く
この そこにはやはり一修行をさせて頂こう
おかげを頂く為には 人が助かる為には 御徳を頂く為には
一修行させて頂こう と言うその心根がそこに見えますね
だから例えば 成行きなら成行きを
ただ受けると言うのではない事がハッキリしますね
その事を修行として受けて行こう
と言う積極的な姿勢と言うのでしょうかね
やはりその修行として受けさせて頂く
信心修行としてその成行きに取り込む
と言うその何と言いましょうかね
ほんの僅かな一言ですけれども
修行として受ける
ただ受けるのではない 修行として受けさせて頂く
ただ受けるのではない 人が助かる為の修行として受けさせて頂く
と言うそこがキーポイントだと言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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