2022年5月11日水曜日

祈られて居ると言う事の有難さ (2022-05-11)

 今日も和賀心学 (2022-05-11)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


今朝は驚くべき事を分からされた。それは直信先覚の先生方と言われるが、教祖様の内弟子と言える人は見当たらない。殆どが通いの弟子であり、教祖様と寝起きを共にされ、教祖様の御信心に身近に触れられた方は居られないらしいと言うこと。殆どの先生が教祖様の祈りを受け現された方々だと言うこと。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 86頁)


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合掌

中原博信

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御神訓




信心は家内に不和のなきがもとなり




教祖さまの御教え下さることは わかる だけでなく

おかげにつながる頂き方をせねば 御教えの値打ちはありません




この御教えもそのとおりであります




家内に不和がない 仲ようしとるというだけではおかげになりません

拝み合うてゆくと言うことであります




形や言葉ではありません

常に心が感謝で一杯ということです




教祖様の御教え下さる事は

と師匠が仰って居られます




教祖様が教えて下さる事 その教祖様が教えて下さる事によって

この御道が開かれたと言う訳です




今朝は驚くべき事に気付かせて頂きました

それはなる程この御道が どうやって開けたのか




どうやって人々が 沢山の人々が助かる様になったのか

その事を思わせて頂いて居りましたら




なる程教祖様の内弟子と言う方は

一人も居られないと言う事ですね




一寸不思議な感じが致します

しかし居られるとすれば家族の方




四神様は確かに内弟子と言えるのかもしれませんけれども

ご家族ですからね 内弟子と言えるのかどうか分かりません




純粋に内弟子と言える方は

どうも誰も居られない様な感じが致しますね




いわゆる直信先覚と言われる先生方でも 住み込みで教祖様と

寝起きを共にして修行されたと言う方はどうも見当たりませんね




どの先生もやはり遠路の所をお参りしてと言うのでしょうか

それこそ月に何回かお参りをすると言った様な事で




教祖様の信心を伝えようと

言う事になられた様ですけれども




それは大概は その思わぬおかげを受けたとか

特別な何かおかげを受けてと言う先生方が多い様に思いますね




そしてまたよく教祖様が その参って来られた人達に

その自分の居る所で いわゆる取次ぎ人を助けて行けと




仰られた様なところが有りますね

いわゆるそう御理解下さったと言うのでしょうか




その教祖様の一言を守り いわゆる取次ぎ助けると言う

その業に従事された先生方も居られる様に思いますね




その教祖様の信心のあり方と言うのでしょうか

それに直に触れて それを目の当たりに




それこそ内弟子として寝起きを 言わば共にして

教祖様の信心を学ばれたと言う方はどうも居られないようだなと




言う事なのですね ある意味殆どの人が外弟子と言うのでしょうか

通いの弟子であった訳ですね




ですから色々な

その人その人の色合いと言うのが有ったのでしょう




そしてただこれは確かな事は

教祖様の祈りがそこに有ったと言う事ですね




どこの先生の許ででも人が助かる

そこには教祖様の祈りが有ったと言う事だけは確かだと思いますね




その教祖様の祈りを身近に現して行かれた

それが直信先覚の先生方と言う事になりますね




どこまでも教祖様の祈りを現して行かれた

だからよく あれは何と言われますかね




教祖様のお広前の延長だとか

言う様な事を言われますね 各教会がですね




いわゆるそれは教祖様の祈りを頂き

そしてそれを現して行かれたと言う事になりますね




ある意味厳密に言うと

教祖様の信心を頂き現されたと言う事ではない様に思うのですね




教祖様の祈りがそこに現れたと言う事であって

教祖様の信心をそれこそ直にその信心に触れた




内弟子として教祖様の信心の姿勢に直に触れたと言う方は

どうも居られないと言う事ですね




何故御ヒレイが立ったか それはその教祖様の信心に触れたから

その信心を伝えたからではなく




教祖様の祈りを現したからと言うのでしょうかね

と言う様な感じが致しますね




と言う事は 御ヒレイを頂く

御ヒレイを現すと言う事だけからすれば




その祈りを受けると言う事 教祖様に祈られると言う事

祈ってもらうと言う事が一番大切だと言う事になりますね




しかしそれはどこまでも人が助かる いわゆる

いわゆるおかげを頂くと言う働きは現せても




教祖様の信心を伝えると言う事には

中々ならない様な感じが致しますね




ですから教祖様がお亡くなりになられたら

祈ってくれる人が無くなる訳ですから




御霊となって祈って居られると言えば

それはそうかもしれませんけれども




或いは教祖様の祈りを四神様が受けられ

その四神様の祈りを受けて居ると




言う事になるのかもしれませんけれども

それが段々希薄になると言うのか




生身で祈って下さると言う事ではありませんからね




段々何と言いましょうかね 尻すぼみになって来るのも

仕方の無い事かもしれませんね




やはり大切な事は その祈りを受ける

勿論そうですけれども 祈りを受けると同時に その信心をやはり現す




教祖様がどう言う信心をなさったのか

その信心を頂くと言う事でしょうけれども




如何せんその教祖様には内弟子が居られ無かった

してみれば教祖様の信心姿勢がどれ程伝わっているのか




これは正直言って分かりませんね

妙な話になりましたけれども




私どもは有難い事に 師匠がまだご存命で

その師匠の許で信心の稽古をさせて頂いた




そこに師匠の信心姿勢を頂く事が出来

また師匠の祈りを頂く事が出来る




やはりその師匠の祈りを頂く事が出来ると言う事が

やはり大切な事の様に思いますね




そして尚且つ師匠の信心のあり方を神習わせて頂く事が出来るならば

それこそ鬼に金棒と言う事になるのかもしれませんね




祈りを頂くと言う事は大切な事ですね




それこそ力ある人 徳者の祈りを頂く 頂いておると言う事は

それだけで大変価値ある事 値打ちある事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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