2022年5月12日木曜日

人の助かりを祈る心が膨らみ伝播する (2022-05-12)

 今日も和賀心学 (2022-05-12)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


金光教教祖様と言えども人を助けたいから信心を始められた訳ではない。我が身の上に神様のおかげを受けたいから神信心を始められた。そしてその信心ぶりが天地金乃神様の目に留まる事となり、人助けの御用を頼まれる事になった。そして人助けの御用をする中に教祖様ご自身の中にも人の助かりを祈る心が膨らんで来たと言う事だと思う。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 160頁)


ビデオ: https://youtu.be/9NzggJAsGLo

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合掌

中原博信

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御神訓




陰とひなたの心を持つなよ




人の足もとばかりが見えるのは

蔭と日なたの心をもって居る証拠と知れ




暗い道を歩くに 前方だけひかる明かりをもって居る様なもの

前方は明るいが自分の方は暗い道理である




後も前も見える明かりをもちたい

自分自身もみえる明かりを持たねばならぬ




目にみえぬ神さまがわかるようになると

蔭の心はもてません




明治天皇御詠

目にみえぬ 神の心に かなうこそ 人の心の まことなりけり




神の心に適う 正に教祖様が そして師匠大坪総一郎師が

その神様の御心に適われた




神様の御心に適われた

と言う事だと思いますね




私どもが教祖様のご信心を分からせて頂くと言うのか

垣間見らせて頂くと言うのか




それは直信先覚の先生達が

語り継がれたと言うのでしょうかね 教えて頂く




その直信先覚の先生方から を通して

見させて頂く教祖様と言うのは




その先生方が触れられた時の教祖様

と言う事になりますね




教祖様の全体像ではない

その先生方が触れられた教祖様と言う事になります




幸いな事に教祖様が書き残して居られます




寧ろ昔の直信先覚の先生方は

その直に触れられた時だけの教祖様ですから




教祖様のお若い頃のご信心とか

その人を助ける様になられるまでの教祖様の信心と言うものは




寧ろ未だご存知なかったかもしれませんね

いわゆる覚書とか覚え帳と言うものが公にされておりませんから




直信先覚の先生方はそれを読んで居られない

目にして居られない訳ですから




教祖様がいわゆる人を助ける様になられた

神様の御心に適う様な信心になられた




その過程はご存じなかった可能性が高いですね




それこそ覚え帳や覚書 先ず覚書ですか

そう言うものが公になって初めて




教祖様の信心の若かりし頃の信心なども

分かる様になったのではないでしょうかね




教祖様と言えども

最初から人が助かる事を願って居られた訳ではない事が分かりますね




その人を助ける為に信心を始められたのではないと言う事ですね

これは勿論師匠の場合も同じですね




先ずは自分がおかげを頂きたいから

自分の家族がおかげを頂く様にと言うのがやっぱり信心の始まりですね




そして先ずは自分がおかげを頂く様にと願い 信心を始める

そして様々な信心の取り組みをなされたのでしょう




それがある時から 神様の御心に適う様になった

そして今度は 神様の方が この氏子を使ってみようと言うのか




この氏子に頼んでみようと言う心に

神様がなられたのだと思いますね




神様の御心に適う信心を 心の有り様と言うものを

有りようと言うのでしょうかね




教祖様が また師匠が持って居られたと言う事ですね

神様の御心に適う心を持って居られた




それがいわゆる立教神伝と言われる

神のお頼みが有る事になった訳ですね




その神様から 取次ぎ人を助けてやってくれと

教祖様が頼まれるまでは




おそらく教祖様も

人を助ける為に御祈念をしようとか 人の助かりを神様に祈る




人が助かる為に信心させて頂こうとか言う思いは

おそらくお持ちでなかっただろうと思いますね




神様から人を助けてやってくれと頼まれて初めて

それならばと言う気になられたのではないでしょうかね




そしてその神様の御頼みである人を助けると言う事を

その御用をして行かれる中に 初めて教祖様の中にも




人を助けると言う事の願いと言うのでしょうかね

教祖様が私にも欲が有りますと




人を助けたいと言う大きな欲が有ります

と言われる様な




その願いと言うのか欲と言うのか

が膨らんで来られたのではないでしょうかね




最初から人を助けたいと思って信心を始められたと言う事ではない

と言う事ですね




ただ神様の御心に適う様な心を持って居られた

そこに神様が人を助ける御用をしてくれと頼まれた




そしてその御用をする内に 愈々今度は教祖様の心の中に

自らの心の中に人を助けたいと言う心が愈々育って来た 募って来た




そして今度は

神様から頼まれて人の助かりを願って居られた教祖様が




教祖様自らが人の助かりを願う様になって行かれた

と言う事ではないでしょうかね




そしてその教祖様が 人の助かりを願う心が愈々膨らんで来て

それが教祖様の祈りともなった




そしてその祈りがいわゆる直信先覚と言われる人達をも

人助けの為に動かす様になった




言わば教祖様のお手代わりとして

各地で人を助ける御用に立たれる様になった




そこにはやはり人を助けたいと願う教祖様の願いが

愈々募り 祈りともなったと言う事ではないでしょうかね




神様に使うて頂いて 人助けの為に

その人助けの御用に使うて頂いて初めて




自らの心の中にも人を助けたいと言う願いが強くなり

それが祈りともなって来る




その祈りを受けて お手代わりの人達の所でも

人が助かる働きが現れて来る 現れて来たと言うのでしょうかね




これは教祖様に於いて然り そしてまた

師匠大坪総一郎師に於いても然りだと思いますね




師匠が最初から人が助かる

人を助ける為に信心をして居られたのではありませんね




自らの助かりの為に

我が家族の助かりの為に信心を始められた




そしてそこから師匠も仰って居られましたね

段々人が助かるようになったと




最初から人を助けようと言う心が有られた訳ではないと思いますね

その信心のあり方が神様の御心に適う 適って居られた




そこから神様が人を助けようと言うその働き

その一端を担われる様になった




その中に 自らの中にも助けたいと言う願いが生まれ

助けようと言う祈りが愈々強くなり




それが伝播して行ったと言う事でしょうかね

その祈りを私どもも受けて居ると言う事ですね




その祈りを 教祖様からまた師匠へとも繋がったその祈りを

受けて居る私どもが やはりその祈りをまた伝えて行かねばならない




現して行かねばならない そうでなければ

折角の師匠の 教祖様の人を助けたいと言う祈りが




勿体無い事になると言うのか

そこで切れてしまう様な事にもなりかねないと言う訳ですね




教祖様の祈りを 師匠の祈りを受け現す

勿論私どももやはり人を助けたいと言う心が愈々育ち




それがまた祈りとも成る様な

おかげを頂かねばなりませんね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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