2022年3月25日金曜日

神様の本懐はおかげではない、和賀心にある (2022-03-25)

 今日も和賀心学 (2022-03-25)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


今朝は、和賀心学と頂いた。馬の前に人参をぶら下げるのは何故か。馬を走らせる為であり、人参を与える為ではない。おかげは和賀心にあり、神様の本懐はおかげではない、和賀心にある。お小遣い目当てに親の手伝いをするのではなく、親を喜ばせる為の手伝いでありたい。神様の本懐としての和賀心を求めるでありたい。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 289頁)


ビデオ: https://youtu.be/8wAO_bysYU8

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合掌

中原博信

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御理解 第32




女が菜園に出て菜を抜く時に

地を拝んで抜くというような心になれば おかげがある




また それを煮て食べる時

神様いただきますというような心あらば あたることなし




実験実証させて頂く信心の いろは です

大地を拝む気になり すべてに頂きますという合掌の心




今まで気づかなかったおかげの元が

そこにもここにもある事に気づかされます




信心とは一切を拝み

一切を頂きますと言うことだな とわかります




信心とは一切を拝み

一切を頂きますと言う事だと




もしこの一切を拝み

一切を頂きますと頂く事が出来たら




なる程私どもの心は それこそ

和らぎ賀ぶ和賀心を頂く事が出来るでしょうね




馬の前に人参をぶら下げる

それは何故か




馬に人参を食べさせたいから

馬の前に人参をぶら下げるのではありませんよね




馬を走らせたい だから馬の前に人参をぶら下げる

人参をやりたい訳ではない




若しも人参をやらずとも 若し馬が走り出すならば

人参を馬の前にぶら下げる必要は無い訳ですね




中々走り出さないから

馬の前に人参をぶら下げようと言う訳ですね




神様が 私どもに願われるものは何か

それは和らぎ賀ぶ和賀心を目指してくれと




和賀心を与えたい

それこそ幸せの条件の全てが整うと言うのでしょうか




それ程しの和賀心だと教えて下さいます

実は今朝は 和賀心学と頂いたのです




その和賀心と 学とは少し離れている感じでした

和賀心 学と頂いたのですけれども




どう言う事だろうかと思います 昨日の続きでは有りませんけれども

神様は荒れ地 荒れ屋敷をお嫌いなさる




それこそ私ども人間の心が荒れておる

その心の荒れ地 荒れ屋敷をお嫌いなさる




ならばその荒れてない心と言うのは

どう言う心だろうかと思いますね




その荒れていない それこそ綺麗に耕されたと言うのでしょうかね

綺麗に整理整頓されたと言うのでしょうか




そう言う心が

和らぎ賀ぶ和賀心ではないかと思いますね




人間の幸福の条件の全てが整う心が

和賀心だとも師匠は教えて下さいます




神様が人間氏子に持って欲しい

育てて欲しい心こそが和らぎ賀ぶ和賀心だと




しかし中々その和賀心を育ててくれ

と言っても中々育てようとしない




そこにおかげと言う人参をぶら下げられる訳ですね

そしておかげは和賀心にありと




そうなると私どもは おかげが欲しいものですから

和賀心を求めようとする 和賀心を求めておかげを得ようとする




神様の願いは おかげを渡す事ではなく

和賀心になってもらいたい 和賀心を目指してもらいたい




と言うのが 神様の本懐だと言う事ですね

そしてそのどうしたら和らぎ賀ぶ和賀心になる事が出来るか




その様々な事柄と言うのでしょうか

有りとあらゆる方法と言うのでしょうかね




それを説かれたのが師匠は 教祖様の御教えの全てであり

同時にまた師匠の御教えの全てとも言えると思いますね




その御教えの全てが

人間がどうしたら和らぎ賀ぶ和賀心を頂く事が出来るか




と言うその手立てを説いて下さってあると




ですから私どもが例えば 野球のバットの素振りをしたり

ボールを打ったり それこそキャッチボールでボールを捕まえたり




或いはボールを投げたり 様々な事を 例えば何も知らずにする

何も知らずにキャッチボールをしたり




何も知らずにバットでボールを打ったりして遊んでいる

それはそれで一つ一つの事が楽しいと言う事も有りましょうけれども




そこに野球をすると言う また野球選手として上手になる

活躍すると言うのでしょうかね




野球をすると言う その野球の楽しみの為に

今夫々の例えばバッティングの稽古であったり




ピッチングの稽古であったり 走る稽古であったり

それら一つ一つが有るのだと




その一つ一つの稽古も確かに楽しいものかもしれません

けれども そこにもう一つ本当の目的




野球を楽しむと言う本当の目的が出来ると

一つ一つの稽古に意義を見い出す事が出来




より一層励む事が出来ると思いますね




私どもがそれこそ成行きを尊ぶであったり

我情我欲を外すであったり




それこそ死んでもままよと言う様な

神様の愛と言うのでしょうかね それを信じる 信じ貫く




様々な師匠の教えが有る訳ですけれども

黙って治めるなどもそうですね




それら全てが

和らぎ賀ぶ和賀心を授けたい為の御教えだと




そしてそこに私どもが和らぎ賀ぶ和賀心を本気で目指す

と言う事になった時に




それら全ての御教えが生きて来る 価値が価値たらしめられる

と言う事になるのではないでしょうかね




そう言うものを一まとめにしたものが和賀心学

と言う事になるのではないでしょうかね




師匠が教えて下さったもの あるいは教祖様が教えて下さったもの

それら全ては和賀心学であると言う事なのですね




ですから私どもが その本懐を本懐として

その目的 行き着く先を 和らぎ賀ぶ和賀心になる事だと




それは神様が願って居られる事であり

私どもの幸せを願う




そしてそこに いつ如何なる中にあっても 和らいで居れ

賀んで居れる心を求め続ける その事が神様の願いなのだと




人の真の助かりが神様の願いであり その真の助かりとは

それこそ和らぎ賀ぶ和賀心の世界であるとも言えると思いますね




その私どもがおかげが欲しいから

和賀心になろうとするのではない




神様が私どもに和賀心になって欲しい

和賀心を目指して欲しいと願って居られる




助かって欲しいと願って居られるから

和らぎ賀ぶ和賀心を目指すのだ となった時に初めて




それこそ 親からお小遣いを貰うのが楽しみで

親の手伝いをする と言うのではない




親の手伝いをする事 その事が楽しいと言うのか

親の為になる 親に喜んで貰う だから親の手伝いをするのだ




と言う様な事になるのではないでしょうかね

おかげが欲しいから和賀心を求めるのではない




神様が和賀心を授けよう 和賀心を求めてくれよ

と願われておるから




それこそ神様に喜んでもらう為に 和らぎ賀ぶ和賀心を目指すのだ

となった時に愈々本当の事になると言うのでしょうかね




のではないでしょうかね




どうでも神様が私どもに願われる助かりの世界

和らぎ賀ぶ和賀心の世界




それを回り道する事なく

言わばお小遣いが欲しいから手伝いをする と言うのではなく




もうダイレクトに和賀心を目指す

と言う信心に目覚めなければならないと言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします

ありがとうございます




あぁそうそう言い忘れましたが




そこにはもうお小遣いを貰えるから手伝う

それはお小遣いがなくても手伝うと言う世界ですから




おかげが有る無しに関わらず

和らぎ賀ぶ和賀心を求めると言う世界ですね




求め続けると言うのでしょうかね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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