2022年3月21日月曜日

民主的を超え、御神意を中心にした神主的生き方の提唱 (2022-03-21)

 今日も和賀心学 (2022-03-21)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


師匠大坪総一郎師の生きられ方の中心を成すものそれは御神意を中心に置き、御神意に則って生きられたと言う事だと思う。御神意に忠実に則して生きる為には先ずその御神意を分からしてもらわねばならない。また我情我欲を放さなければ御神意に沿う生き方は出来ない。民主的を超えた神主的生き方と言えよう。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 128頁)


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合掌

中原博信

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御神訓




まめなとも信心の油断をすな




畏み畏みも白す と言い

おかげ頂きました と言う




有難うございます と言う

これがマンネリ化せんように精進せねばなりません




教会を遠ざかるのは油断のはじまり 忘れませんと言いながら

遠ざかれば遠ざかるほど見えなくなります




信心の油断をすなと その信心の油断をすなと

どう言う時にその油断が出るのでしょうかね




油断と言うのは 油を断つと言う事ですけれども

油を切らしてしまう




肝心要の何かを切らしてしまう

と言う事になる訳ですね




そのう では油断をしない生き方と言うのは

どう言う生き方だろうかと




それは師匠の 大坪総一郎師の生きられ方

これこそが正に油断の無い生き方だと思いますね




そしてその師匠の生きられ方の根本に有るものと言うのでしょうか

揺るぎ無いもの そこを一つどこまでも押さえてあるもの




それはやはり 御神意に則した生き方

御神意に則った生き方と言うものを貫かれた所に有ると思いますね




とにかく一時が万事に御神意と言うものを大切に

大切にと言うどころでは有りませんね




御神意を中心にした生き方

と言う事だと思いますね




そこには私どもの我情我欲が有ったのでは

御神意を中心にする事は出来ませんね




私どもが右に行きたい 左に行きたい

と思う様な事であったのでは




神様が左に行け 右に行けと仰られた時に

その御心に沿う事が出来ません




ですから御神意を中心にして そこに則った生き方をする為には

やはり我情我欲が外さねばなりませんね




何故我情我欲を外さねばならないのか

それは御神意に則った生き方が出来無くなるからですね




師匠は徹頭徹尾やはり御神意と言う事 神様の御心に沿う生き方

沿うた生き方 そこに徹し貫かれたのではないでしょうかね




実は昨日あるお話を頂いて居りましたら

本教の教主選挙制ですか についてのお話を 少しして居られました




そこに言及して居られた訳ですけれども そこから発展して

教会長選挙制と言うような事を匂わせる様なお話もして居られましたが




その事が何かしら気に掛かっていたのですね

それで今朝の心中祈念の時に




どう言う事だろうか どうして私の心に何か掛かるのだろうか

と思って居りましたら その御神意と言う事を頂くのですね




なる程教主を選挙で決める これは如何にも現代風の

民主的な教団の運営の在り方の様に思われますね




これが世襲制と言う様な事になると

まあ問題も起きて来ましょうし




また古臭いしきたりと言うのでしょうか 慣習と言うのでしょうか

そう言うものを指摘されかねませんからね




なる程選挙制で教主を選ぶと言うのは

一見民主的な様で素晴らしい事の様に有ります




それがその選挙で選ばれる 選挙で選ぶ

それを御神意としてそこに頂くのならば




それはそれで良いのかもしれません

しかしそれがやはりその民主的な行き方として




あるいは世間に通用する生き方として

教主を選挙で それこそ選んで行こうと言う行き方




これはある意味人間偏重

人間に偏った生き方にもなりかねない所が有りますね




その辺の大変微妙な所が有ると思います

その教主選挙制と言う事についてはですね




誰が選ぶのかと言う事も有りましょうし

その選挙人を選ぶのもまた関って来ましょうし




果たして教主を選んで その選んだ人達がどう言う思いで選ぶのか

私が 私達が選んだ教主様 と言う事になるのか




或いは選ばなかった人達はその教主様を教主と頂く事が出来るのか

なる程満場一致なら間違いないのでしょうけれども




それが十の内の四対六であったと言う様な事になれば

六人は賛成で四人は別の人と言う事になったらどうなるのでしょうかね




嫌々 教主として崇めると言う様な事では

崇めた事にはなりませんしね




信心と言う上においてその選挙制と言うものが

大変微妙な関係が有りますね




それを果たして御神意として頂いて行ければ良いのでしょうけれども

頂いて行かない場合には微妙な所が有りますね




最も肝心な事は それが御神意かどうかと言う事ですね

教主様としてその御神意が有る




御神意を頂いての教主様でなければならない

人が選んで教主様になられたと言うのであったのでは




また少し違って来ますからね

人が選挙によって選んだ教主様ではない




そこに御神意を頂いて 御神意を体して教主となられた

と言う事でなければ 信心においての意味が薄くなりますね




この今日頂きます油断 油を断つ 私どもが油断をする

その選挙をすると言う事においても ついつい人間心で投票する




そこにもう油断が入っている訳ですね




神様の御神意を体して御神意のある人を選ぶと言う姿勢が 選ぶ方にも

選ぶ側にも貫かれておるのならば 良いのでしょうけれども




いわゆる民主的な形で選ぶ この人が良い あの人が良いと

そこに人間心が入って選ばれるのであるならば もう油断ですね




信心の油断がそこに有りますね

人が選んだと言う




どこまでも師匠は御神意を

神様の御心に沿う生き方を貫かれたと言う事ですね




一時が万事に それはある意味民主的な生き方と言うものから

少し外れて見られるかもしれません




しかし人間の幸せが

神様のおかげを頂かなければ本当の幸せが頂けないものとするならば




いわゆる何々主義 何々主義と言う人間が作り上げた

そう言う主義主張と言うものを超えた所に 超越した所に




神様の御心に沿う 御神意に奉る生き方の中にこそ

人間の真の幸せが 平和が有ると言う事ですからね




だからこそ 手を横に繋いだだけでは真の平和は訪れない

その手を上に上げて 言わば神様の前に神様に降伏して




それこそ神様の御神意に沿う生き方をさせて頂くもの同士が

手を上に上げた状態で手を繋いで初めて




真の平和が訪れる

と言う事になる訳ですね




どうでも私どもが その神様の御心に沿う生き方に徹する

御神意に沿う生き方に徹する




そう言う生き方を身に着けて

行かなければなりませんね




そしてそこに初めて本当の人間の助かりが有り

平和も有ると言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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