今日も和賀心学 (2022-03-18)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
師匠大坪総一郎師は、右と願えば左、左と願えば右となる中に、これは私にも神様の願いがかけられておるに違いないと感得された。そこから私にかけられた神様の願いが成就する為ならばと、我が身の上に起こって来る事柄を受ける事を修行としようと腹を決められた。これが合楽理念の始まりと言えよう。先ずは私にも神様が願いをかけておられるに違いないと感得すること。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 141頁)
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合掌
中原博信
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御神訓
過ぎたることを思い出して
腹立て苦をすなよ
思い出しても腹が立つというようなことがあった
信心を頂くようになったら
あの事のおかげで信心をわからせて頂いた
力を受けたと其の事に御礼が言えるようになった
無念残念 苦しかったは昔の夢と消え失せた
信心のある者とない者の違いをしみじみと感じます
信心のある者と ない者との違いを
しみじみと感じます と有ります
その信心のある者と ない者との違いは
どこに有るのでしょうかね
それはその人その人の信心によって色々な
ここは違う あそこが違うと言う事が有るのでしょうけれども
今日教えて頂きます その一つは
神様の願い 私にかけられた神様の願い
それが有ると言う事を信じるか 信じれないか
信心のない人は とても私に神様の願いがかけられている
などとは思わないでしょうね
またその神様の存在すら疑うておる訳ですから
神様の願いが私に有るなんて とても思いもつかない事でしょうね
信心させて頂いて初めて
これは私にも何かしら神様の願いがかけられておる に違いない
と言う心が湧いて来ると言うのか 育って来るのだと思いますね
そしてそこが 信心の別れ道になる様な感じが致しますね
師匠大坪総一郎師が
それこそ色々な直信先覚がなさった修行をしたけれども
いわゆるおかげにはならなかったと
そこで思い付いたのが
その身の上に起きて来る事柄一切を受け貫かせて頂く
その事を修行とさせて頂く と言う事を思い付いたと
それはそれで良いのですけれども
そのそこに至るまでの
もう一つ引き金が有りますね
それはよく仰って居られました
私にも神様の願いがかけられておるに違いない
そしてその私にかけられた神様の願いが成就する 為ならば
それこそ右になろうと 左になろうと もう受けさせて頂きますと
身の上に起きて来る事柄を受ける事を
修行として行かれた訳ですね
言わば師匠は 私にも神様の願いがかけられておるに違いない
と そこが大切なとこだと思いますね
何かしらやっぱりそれまでの信心体験の中で
感じられたのだと思います
これは私にも神様の願いが それが何かは分からないけれども
かけられておるに違いない その神様の願いが成就する為ならばと
その前には色々なご商売をなさったり それこそ
右になります様に 左になります様にと言う願い事をして居られますね
いわゆるおかげ信心
と言われるものですね
そしてその右になります様に 左になります様に
と言う願いが悉く裏目に出た
右と願えば左 左と願えば右 と師匠の願いは叶わなかった訳です
自分の願い事が叶わない いわゆるおかげにならない
そこで編み出されたのが これはもう私の願いが叶わない
しかしそこには 何かしら神様の願いが有るに違いない
これは私にかけられた神様の願いが有るに違いない
その神様の願いと一致しない事を私が願って居るから
私の願いが叶わないのだと
言わば私の願いが 神様の願いと合致しないと言うのでしょうかね
だから私の願いが叶わないのだと
そこで それならばもう私が右にして下さい
左にして下さいと願うのは もう止めようと
もうこれからは神様の願いが 私にかけられた神様の願いが
成就する為の出来事が起こって来ますように
そしてその事を 神様の願いが成就する為の修行として
一切を受け貫かせて頂こう と腹決めをされる訳ですね
ただ自分の願いが叶う様に
その為の修行として一切を受け貫かれたと言うのではない様ですね
寧ろ右と願えば左 左と願えば右と自分の願いは悉く成就しない
そういう中にあって これはきっと神様が何か願って居られるのだ
私にも神様の願いがかけられておる その神様の願いと
私が今願っておる願いとが一致しないと言うのでしょうかね
だから私の願いが叶わないのだ
それならばもう 私にかけられた神様の願いが成就する事
その事を私の願いとさせて頂こうと
その為ならば もう右になろうが 左になろうが
その事を神様の願いが成就する事として受け貫かせて頂こう
その事を修行とさせて頂こうと言うのが
いわゆる合楽理念の発端になったのだと思いますね
そこには神様の願いがこの私にも何かしらかけられておるに違いない
と言うその思いですね
ここが有りませんと その次の信心が有りませんね
その私にかけられた神様の願いが有るに違いないと
その事を信じる事 その事を感じる事
そこから初めて信心が始まると言うのでしょうかね
そんな感じが致しますね
ですから例えば紛争であっても
この度のパンデミックであっても
今は分からない けれどもそこに
神様の願いが何かしらかけられておるに違いない
またその事を通して 私に神様が何か願いをかけて居られるに違いない
その神様の願いが成就する為に と受け貫く
その為にここを改まらせて頂こう この成行きを頂いて行こう
という言わばその信心の原動力ともなるもの
それが私にも神様の願いがかけられておるに違いない
その事の成就の為に と言う事だと思いますね
なる程パンデミックであったり 紛争であったり
人間心で見れば大変痛ましいと言うのか
悲しい 無いに越したことはない様な出来事ですけれども
そこにかけられた神様の願い
神様の御思いと言うものにも 心を馳せて
その神様の願いが成就する事を願わせて頂く信心と言うのが
また要るのではないでしょうかね
先ずはとにかく私にも神様の願いがかけられておるに違いない
その願いが成就する事の為に 成行きを尊ばせて頂くと言う信心ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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