今日も和賀心学 (2022-03-15)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
師匠大坪総一郎師の信心姿勢の特徴の一つにその修行精神が有る。師匠の信心の大ヒットは今日的に言えば成行きを受け貫かれた事だが、決して初めから成行きは神の働きとして受けられたのではない。信心修行として受け貫かれた。他のあらゆる修行の末に行き着かれた修行が成行きを受け貫くと言う修行だった。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 80頁)
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合掌
中原博信
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御神訓
四季の変わりは人の力におよばぬことぞ
物事 時節に任せよ
人の力に及ばざる事を不平不足を言わず頂くことこそ
御神意に背かぬ事である
合楽で言われる御理念に基づく生き方は人間の最も善なる生き方である
故に 人間の最高のおかげの道が開かれる
人間の最も善なる生き方である と師匠大坪総一郎師は
どこまでも人が助かる為の 真実の生き方を求められたと思いますね
そしてその師匠の生きられ方 生き様と言うのが
神様の御心に適ったと言うのでしょうか 通うたと言うのでしょうか
そして神様が この師匠の生きられた生き方
それを他の人にも伝えて欲しい と言うのか
後世に残し 他の人も
言わば師匠が生きられたその生きられ方を学んでくれと
その様な生き方をしてくれと
言う事だと思うのですね
師匠の信心と言うのでしょうか
師匠の生きられ方に神様が心を動かされなさったと言う事ですね
その師匠の生きられ方の特徴の一つ
それが修行精神と言う事だと思いますね
その和賀心を頂こうと思うて
タダで頂こうと思うても頂けるものではないと
人間の幸せの元になる
言わばそういうそれ程しの和賀心を頂こうと言うのならば
やはりそれに見合う修行をさせて頂こう
と言う腹決めが要ると言う事ですね
何も神様が 修行を求めて居られる訳ではない
修行をさせよう 辛い事をさせようとして居られる訳ではない
私ども人間の方に修行をしてでもと言うその腹決めと言うのか
そう言う覚悟が要るのだと言う事なのですね
師匠はそれこそ信心しておかげを受けてくれよと
そのおかげを受ける為にと
直信先覚がなされたと言われるあらゆる修行をしたと
それでも師匠の場合にはいわゆるおかげに成らなかったと
そこで最後の手段として始められたのが
自分に起こって来る出来事 それを受けて行こうと
そこなのですね
成行きを頂くとか 受けるとか表現されますけれども
師匠のその初めの成行きを受けられる受けられ方が
いわゆる教えられた訳でもない 自分で編み出された訳ですけれども
ある研修の時に 朝の御理解を修行生の先生方が纏められます
そしてそれを発表されます
その時に或る先生が それこそ師匠が成行きを頂いて行かれたと
自分の身に起こって来る事を頂いて行かれたと
それだけ書いて居られた訳ですね
それに対して それでは足りないと
私は 師匠ですね
ただその自分の身の上に起こって来る事を受けて行ったと
あらゆる先覚のなさった修行をしたけれども
それではおかげに成らなかったから
これからは自分に起こって来る事を何でも受けて行こうと
そう言う 修行としてそれをさせて頂いた
とそこを強調して居られましたね
その修行生の先生は ただ師匠がいわゆる成行きを受けて来られた
成行きを受ける信心に入られたと表現して居られたのは
それでは足りないと ただ成行きを受けたと
自分の身の上に起こって来る事を受けたのではない
その自分の身の上に起こって来る事を受ける事を
修行とさせて頂いたのだと
その修行とさせて頂いた 修行として受けた
これが抜けてはいけないと
そこを書き足して下さい
と仰って居られましたね
ですから師匠は それこそ自分の身の上に起きて来る事
その事を一切を修行として受ける 受けて行かれた訳ですね
そこには 2つの事が有りますね
一つはそのいわゆる成行きを受ける
その受けて行く中に なる程成行きは神様の御働きだ
と言う事が段々分かって来られた訳です
最初から 成行きは神様の働きだから受けようと言う訳では無かった
何が何やら分からないけれども もうする事が無いから
修行をするものが無いから
成行きを受ける事を修行としよう とされた
その中に 成行きは神様の御働きだ
と言う事が分かって来たと
後世の私どもは 最初から成行きは神様の働きだ
だから受けなさい 頂きなさいと言う事になって居りますけれども
師匠の時はそうではなかった
何が何やら分からないけれども 成行きを受ける それを修行とした
ですからその成行きを受ける事によって
神様の願いが成就すると言う事が一つと
師匠がその事を修行として受けようと
言わばそこには神様のおかげを受ける 神様の御働きを受ける
タダで受けようとはして居られない所ですね
物を買うにもタダで持って来たらそれは泥棒だと
そこに百円なら百円 千円なら千円 お金を払って
貰うのが妥当だと言うのでしょうかね
ですから修行もせずにおかげを頂こうなんて
それは虫が良すぎると言う事になりますね
虫が良過ぎると言うよりか そう言う事は考えが付かない
何かを頂くには やはり何かをその対価を払わねばならない
修行の一つでもさせて頂く こう言う神様からおかげを頂くならば
その為の修行の一つもさせて頂かねばと言うその心根ですね
やはり私どもタダで貰うと儲かった気分になり嬉しいものですね
棚からぼた餅で落ちて来ると喜びます
師匠は そうではないのですね
これだけのものを貰うからには
これだけのお返しをすると言うのではないでしょうけれども
いわゆる修行をさせて頂くのが当然だと
それこそ人の助かりを願う
ただ助かりを願う
のは誰でもしますけれども
助かりを願うからにはこれだけの修行をさせて頂こう
そのさせて頂くのが当然だと
言わば修行をしてでも人が助かる事を祈る
と言うのでしょうかね
どう表現して良いのかよく分かりませんけど
その辺の微妙な兼ね合いですね
ただ願うだけではない
よく 体の丈夫を願う 願うからには夜食は致しません
家内の 何ですか不和の無き事を願う
からには人を責めません 家内の事も責めませんと言う
必ずそう言うおかげを頂く
その為には自らがこう言う修行をさせて頂いてでも
と言うその心根が有る訳ですね
別に ギブアンドテイクとはまた別のものですね
神様のおかげを頂くからには 和賀心を頂くからには
これだけのせめてもの修行はさせて頂かねばと言うのでしょうかね
その修行精神
そこにまた神様が感応されたのではないかと思いますね
これこれのおかげを頂きたい
ならばせめてこれだけの修行はさせて頂いてでも
と言うそのやはり修行精神
これ無くしては神様の御心に通う事は無いでしょうね
それは神様が求められているものではない
けれども要る事なのですね
雨が降るからおじゃるなと言うに 濡れておじゃればなお可愛い
と言われる その心根にも相通ずるものがそこに有ると思いますね
せめてもの修行 とも師匠は表現して居られますね
そう言う修行精神がやはり天地に通うのだと思いますね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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