2022年3月31日木曜日

神経を使わねば神様のサインを見逃してしまう (2022-03-31)

 今日も和賀心学 (2022-03-31)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


ある時、師匠大坪総一郎師が御結界で、バイ菌に神経を使われる或るお医者さんはお札を全部消毒し、障子の桟で乾かし、乾いてヒラヒラと落ちて来たお札しか素手では触られないと。それ程しに神経を使われると。そう言う神経を私は神様に使うと御理解下さった。神経を使わねば神様のサインを見逃してしまう。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 362頁)


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合掌

中原博信

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御理解 第56




日にちさえたてば世間が広うなってゆく

ひそかにして信心はせよ




例えば むつや呉服店の場合

親が亡くなられたのは社長がまだ二十歳頃のことだった




また次々と難儀が続いた 不幸が続き

店の上にも むつや騒動と言われる程の事件が持ち上がった




もう むつやは仕舞えた という風評もたった

その中を日々のお取次を頂いた




親先生はいつの場合も 信司郎さん 大きくなることばい

豊かになることばい 唯 この一言だった




堪え難いところを神様にすがって堪えて来た

十数年後の今日のむつや呉服店の繁昌につながった




久富繁雄氏の場合も同じである 数十年の信心の中に

ただ良い事ばかりではなかった さまざまな難儀な事も続いた




地蔵の徳 と言われ  土の信心に徹せよ

と教えられ これに徹した いよいよ素直な信心も育った




親戚の者にも 金光様 金光様と逆上せておる

と言われた時代もあった




そこを土の心で受け抜かれ

今日の久富一家一門のおかげと繁昌がある




ひそかにして信心はせよと

まぁ派手な信心と言われるものも有りますね




いわゆる派手なおかげを頂く

と言うものですね




とまたおかげは頂いているか 頂いていないか分からない様な

それでも信心が続く と言うよりか寧ろ難儀が続く




その難儀のおかげで信心が続く

と言う事も有りますね




そのお店にも 一見のお客さんと言われるものが有りますが

一回切りのお客さんと言うのでしょうか




そう言うお客さんも有れば

それこそ馴染みのお客さん




いつも買い物に来て下さるお客さん

と言うものも有りますね




やはり信心も 困った時の神頼み的な

いわゆる困った時だけ信心をする 神様にお願いをする




と言う信心から それこそ別に困った事は無いけれども

信心をする 神様参りをすると言うのでしょうかね




そう言う信心になって行けば良いのでしょうね

けれどもやっぱり私ども 日常生活で事が上手く運んで居りますと




中々信心にならないと言うのか

神様を忘れてしまいがちですね




神様を忘れない様にする

これはやはり精進努力と言うのが要る様な気が致しますね




実は今日思い出させて頂きましたのは

その昨日の成行きからですけれども




師匠が 未だ私が修行に入る前にある時に お届けに行った時に

こう言う話をして下さいました




何からそうなったのかよく分かりませんが

神様に対して大変神経を使う またその神経を使いなさい




と言う様な事なのですね

それは或るお医者さんのお話をして下さいました




バイ菌に対して神経質と言うか 神経を使われる訳ですね

ですからそのお札なんかでも手で触れられないと




いわゆる何人もの手を渡って来ている訳ですから

バイ菌が一杯付いてると だからそれを必ず消毒液に入れて消毒して




そしてピンセットか何かで摘まれるのでしょうね

そしてそれを例えば昔ですから 障子の桟なら桟に置いて乾かして




その乾いてヒラヒラと落ちて来て

初めて




その消毒して乾かしてそしてヒラヒラと落ちて来たものを初めて

素手で触られる 手で触られると言うのですね




いわゆるバイ菌に対して

それ程しに神経を使われると




と同じ様な神経を私は神様に対して使う

と師匠は御理解下さったのですね




どういう事だろうかと思いますけれども

昨日は ああこう言う事だろうかと思う様な事が有りましたが




あるパソコンの調子がおかしいと メールが上手く取れないと

それで電話で色々お話しさせて頂き




設定の仕方等を色々やり取りしたのですけれども

なる程ここが違うのかと思いましたのは




ある画面を見て居られる訳ですね 私には見えません

それでその画面に何が見えますかと




いわゆるある画面から先に進まない

と言う訳です




もうそれで設定が終わったと

終わったけれども何も起こらないと言われる訳です




それで果たして本当だろうかと思い 画面に何が見えますかと

何が書いて有りますかとお尋ねしましたところ




別に何も無いと 言う事でしたけれども

もっと良く見て下さいと 何か次に行く画面で有ったり




キャンセルする画面で有ったり OK と言う文字が有ったり

何かあるはずですと




何も無いと 普通の画面だと

まぁその人にとっては普通の画面な訳ですね




ところが必ず何か有るはずなのです

で もっと良く見て下さい と言って見て頂きましたら




何か 保存と言うボタンが有ると

あぁそれですねと言う事で




その保存と言うボタンをクリックしてもらいましたら

次の画面に進んで 無事に設定が出来たと言う事でした




その保存と言うボタンを

見過ごして居られた訳ですね




その体験が少ないと 次に何が出て来るか そしてここに

どう言うメッセージが出て来るか こう言うメッセージが有るはずだ




次に行く為には 何かどっかをクリックしなければならない

必ず何かメッセージが出て来るはずだ と言う感覚が無い訳ですね




ですから見ている画面が そこにメッセージが有るにも関わらず

分からない訳です 注意が足りないからですね




なる程 師匠と私どもの違いはここだろうなと思うのですね

師匠はそれこそ神経を使われた




神様からのシグナル サインですか

神様のサインを見逃すまいと そこに神経を集中された




ですからあれは四神様ですか 歌謡曲の中からでも

針が落ちる音の中からでも 神様の声を聞く様にと言うのが有りますね




正に師匠は その成行きの中

目に見るもの 耳に聞くもの 触るもの




それら一切の事の中に

神様のサインを見逃すまいとされたのだなと思いますね




ついついその神経が行き届きませんと

神様のサインを見落としてしまいます




今朝もそうでした 話せば長くなりますけれども

その あぁこれは神様のサインだなと思うのは




私の心をもう一回り大きくしなさい

と言った様な事を感じさせて頂くサインでした




私どもが神経を散漫にして居りますと

その神様からのサインを見過ごしてしまいます




さあどこに神様のサインが有るのだろうか

若しかしたらこれは神様のサインではなかろうか




とそこに神経を研ぎ澄まさせて頂き

見て行くと言う事が要ると思いますね




ひそかにして信心をせよ その神様のサインを見落とすまい

と言うその神経を使って初めて




そのひそかにして信心はせよ

と言う事が生きて来るのだと思いますね




それこそ その方はパソコンの方ですけれども

もう 10年 20年とパソコンを使って居られる訳ですけれども




いわゆるそこに現れるメッセージに対して

神経を使って居られない訳ですね




無頓着と言うのか 分からないと言うのか

だから 10年 20年使って居っても一向に上達しないと言う訳です




これは信心に於いても然り 神様からのサインを見落とすまい

と言うそこに神経を集中していないならば




10年信心しようが 20年信心しようが

一つも変わらないと言う事になりますね




ひそかにして信心をせよ




それは密かにして神様のサインを見落とすまい 見逃すまい

と集中される 神経を使う




そう言う神経を使っての 5年 10年であって初めて

信心も まぁ何と言いましょうかね 次の段階に進む事が出来る




神様からのメッセージ 神様の御心に沿うて行く事も出来る

と言う事になりますね




どうでも神様からのサインを見逃してはならない

さあどこにサインが有るのだろうかと




そこに神経を研ぎ澄まさせて頂いての

日々でありたいと思いますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



2022年3月30日水曜日

神様から、何でも願っていいよと言われる私になること (2022-03-30)

 今日も和賀心学 (2022-03-30)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


ある先生が、なんでもの願い、と言う事を仰って居られたと思う。今朝はその事を頂く。それは「何でも」かんでも願う、また何が「何でも」と願う。その両方が要るのだと。そしてそこには神様が、「何でも願っていいよ」と仰って下さる様な私に成らなければならないと言うこと。そう言う間柄になると言う事。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 255頁)


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御理解 第21




信心せよ 信心とは

わが心が神に向かうのを信心というのじゃ




神徳の中におっても 氏子に信なければおかげはなし

カンテラに油いっぱいあっても 芯がなければ火がともらず




火がともらねば夜は闇なり

信心なければ世界が闇なり




信は力なり 力は光なり

信により人が助かり 光は世を潤す




現世まさに世界が闇なりの 様相を感ずる

闇夜にも等しい今の時代に




信の力を以て 光を以て

社会に奉仕しよう




信心せよ信心とはわが心が神に向うのを信心と云うのじゃ

氏子に信なければ の信を得るには




すべてのことをすべて神に祈り

神にまかせることから信が生まれる




わが心が神に向う

とは其のようなことである




全ての事を 全て神に祈り と師匠は表現して居られます

今朝はこの辺の事を頂くのですけれども




ある高徳な先生が

なんでもの願い と仰って居られるそうですね




何でもの願い 私は最初はこれは

何でもかんでも願う と言う事だと思って居りました




確かにそう言う事も有るのだと思いますね

正に今日の師匠大坪総一郎師のミニ御理解にも有ります




全ての事を全て神に祈りと

そして神に任せるとも表現して居られますね




教祖様の御教えにもそれこそ 痛み病気ですか

あっては家業出来難しと 牛馬に至るまで実意をもって願えと




これなどもいわゆる身の回りの事を何でも願いなさい

と言う事だと思うのですけれども その何でもかんでも願えと




そしてもう一つ 昨日からと言いましょうか ここ数日頂いて居ります

執念をもって願うと言う所から行きますと




この何でもの願いと言うのが

何が何でもと言う願いである事も分かりますね




何が何でも叶えて下さい

何が何でも聞き届けて下さい と言う願いですね




それこそ何が何でも いわゆるどうでも叶えて下さいと言う訳ですね

どうでもおかげを下さいと




いわゆる何でもかんでもと言う事と

何が何でもと言うその何でもが 2つ有る訳ですけれども




その両方が意味されているのだなと思いますね

上手く表現されたものですね




何でもの願い 何でもかんでもと言うのと

何が何でもと言うのと 上手く掛けられていますね




そして今日頂きますのは

その例えて言えば




あれは歌でしたか 3つの願いと言うのが有りますね

3つの願いを叶えて下さいと




或いはあるどこか拝み屋さんと言いましょうか そこでは

その神様があなたの願いを 1つだけ叶えましょう と言われるとか




3つだけ叶えましょうとか それならば何を 3つ願われますか

1つならば何ですか と言う訳ですけれども




この神様はどうも違う様ですね

その何でもかんでも 何が何でもと願う 願えと言う事なのですね




ところがこれが神様から そう言われる様な私どもに 成れと

言う事を 今日は頂くのですね




私どもが 何でもかんでも願うと言うのではない

神様の方が 何でもかんでも願って来いよと 何が何でも




何でもかんでも

何が何でもと願って来いよと




その神様が あなたの願い事を何でも聞いてやろう

と言われる訳ですけれども




その聞いて下さったからと言って思い通りになる

と言う訳ではまた有りませんね




師匠のここに有ります

神様に任せる事から と有ります




何でもかんでも願って そしてその後は

神様の御裁量に任せると言うのでしょうかね




私どもが右に行った方が良いのか 左が良いのか

先々の事は やはり神様が一番よく御存知ですから




その神様が一番おかげになると言う方向に

進めて下さる訳ですからね




私どもにとっては

それこそ今は一寸不都合であるかもしれないけれども




先々こちらの方が得だと言う方向に神様が間違いなく導いて下さる

それを確信する事ですからね




と同時に神様から 何でもかんでも願って来い

と言われる様な私どもにならなければならない と言う事なのですね




何でもかんでも願って良いよ 願いなさい と言われて

もし私どもが 人が不幸になる様な事を願う様な事




あるいは人が迷惑をする様な事を願う様な事が有ったのでは

何でも願って来いよとは言われませんよね




ああこの人に この人の願いを何でも願えと言ったら

この人はきっと人に危害を加える様な事を願うに違いない




と言う様な人に 何でも願いなさいとは とても言えませんね

この人ならば もう人が助かる事しか願わない




その無理難題 我情我欲の願いはこの人はしないだろう

いやしない と見極めが付いた時に初めて 何でも願って良いよ




あなたの願いは それこそ真っ当な願いだから

何でも願って良いよ と言う事になるのではないでしょうかね




そう言う神様から 何でも願って良いよ 何でも願っておいで

と言われる様な私どもの心にならなければならない




心が育たねばならない

と言う事なのですね




そして一日も早く神様から

何でも願っておいで と言われる様な日が来たいものですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



2022年3月29日火曜日

実意とは執念であり貫くこと (2022-03-29)

 今日も和賀心学 (2022-03-29)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


今朝は、実意とは執念だと頂いた。師匠は更に、執念とは貫くことと教えて下さる。即ち実意とは執念であり貫くことだと言うことになる。或る人が、私は失敗をした事が無いと言って居られた。それは成功するまで決して投げ出さないからだと。途中で諦めたら失敗で終わるが成功するまで貫くから失敗は無いと。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 53頁)


ビデオ: https://youtu.be/vr9zWmlcjc8

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御神訓




表行よりは心行をせよ




はがゆいこと 残念なと思うこと

それを有難いと思える 稽古が心行です




すべてのこと

それ神愛 神願だからです




それを有難いと思える稽古が心行です

と教えて下さいますが




今朝はその有難い

中々有難いと思えない




しかしその有難いと思えない事を 有難いと頂けれる様になるまで

貫かねばならないと言うのでしょうかね




実は今朝は 実意とは執念だと教えて頂きました

そう言えば大阪講演 師匠の大阪講演の時にお話が有りますね




ある先生が 実意とは執念の事だよと

それをまた師匠は 執念とは貫く事だ と教えて下さいますね




この御道はよく 実意丁寧神信心とか

或いは 牛馬に至るまで実意をもって願え などと言われますね




その実意とは何かと

今朝はそれを 実意を執念だと頂くのですね




そしてその執念とは 更に貫く事だと

正にあの師匠が大阪講演で仰られた事そのものの様な感じが致しますね




その事を それこそ実感をもって頂いたと言う所ですね

実は師匠の研修テープが有ります




これは昔のオープンテープレコーダー

モノラルのオープンテープレコーダーで録音されています




これを後々にステレオの

オープンテープレコーダーで再生します




そうすると 昔は裏表の往復録音でしたから

いわゆるテープをひっくり返してまた録音する訳ですね




そうやって表と裏と録音されたモノラルのオープンテープを

ステレオの装置で聞きますと




右耳にはその復路ですか の裏側の音が流れて来て

左側のチャンネルからは通常の音が流れるのですね




これをですから初代の御理解は 失礼初代の研修は

モノラルのオープンテープレコーダーで往復録音されている訳です




これをステレオの機械で再生すると

いわゆる左側チャンネルには普通に聞こえるのですけれども




右側チャンネルにはその裏側の音が逆再生されて聞こえるのですね

そう言う仕様な訳です




ですからいわゆる聞いて

何を言ってるか分からない




いわゆる逆再生されている音と その普通の音とが

ごちゃ混ぜになって聞こえる訳です




ですからこれをまともに聞こうとすると

右側のチャンネルだけをオフにして




左側のチャンネルだけを聞く様にすると

普通に聞ける訳ですね




これをオープンテープレコーダーからデジタル化された先生が

その事を多分ご存じ無かったのだろうと思います




そのままデジタル化して有りますから

デジタルデータをそのまま流すと それこそ妙な音が聞こえて




全然いわゆるお話としては頂けない訳ですね

逆再生の音と普通の音とが同時に聞こえて来る訳ですから




これをパソコンで聞く分には

右側のチャンネルをオフにして




左側のチャンネルだけを聞くと言う操作をすれば

音が普通に聞こえる訳ですね




ところがこれをいわゆるスマホですか アイフォンで聞こうとすると

その操作が出来ないのですね




左側チャンネルだけを音を流すと言うアプリですか

そう言うプレーヤーが中々無いのです




いわゆる普通に再生するものしかない




右側と左側のチャンネルを別々にボリュームをコントロール出来る

と言うアプリが無い訳ですね




私も何とかアイフォンで

その師匠の研修を聞けないものだろうかと




右側と左側のチャンネルがごちゃごちゃになって聞こえる

それを何とか左側だけのチャンネルを聞く方法はないものだろうかと




もう随分探して居りました そしてやっと昨日

その左側チャンネルだけを音を流すと言うアプリが見つかりました




それはもうほぼ諦めかけていた所でしたけれども

それでも何とかないものかと探した結果




右側のチャンネルだけをボリュームをゼロにする

そして左側のチャンネルだけを音を聞く ステレオ再生でですね




と言うアプリが やっと見つかりました

その事を指して いわゆるそれは執念ですね




何とか師匠の研修を それこそ左右がごちゃごちゃになっている音を

何とか聞きたい と言うそのいわゆる執念です




その執念が実ったと言う訳ですね

普通に探しては 普通の再生アプリではそれが出来ないのですね




やっと見付けました その事を評してと言うのか

その事をいわゆる執念だと神様が仰って下さった様に思いますね




やはり信心にはその執念が要る訳です

何とかして師匠の研修のお話をアイフォンで頂きたい




アイパッドで頂きたい 聞きたいと言う

その執念 それがいわゆる実意だと言う訳ですね




実意と正に執念なのですね




そしてその執念とは何かと言うと

師匠が教えて下さる 貫くと言う事である訳ですね




いわゆる何とか聞きたい

と言うその切実心を貫くと言うのでしょうかね




何とか師匠の研修のお話を頂きたい スマホで頂けれる様に

ならないものだろうかと言うその切実な思いを持ち続ける




そしてそれを 方法を探し続ける

やはりそれは執念ですね そして貫く事ですね




正にそれが実意とは執念であり

貫く事だと言う事ですね




ですから有難くない しかしそれが有難いと思える様になる

有難いと頂けれる様になるまで どうしたら有難くなれるだろうか




どう言う心になったら有難くなれるだろうかと

それは執念です 貫く事




それこそ或る方が 私は失敗した事が有りません

と仰って居られましたね




何故失敗した事が無いのか

それは成功するまで何回も何回も繰り返すからです




そして途中で諦めたら失敗なのです

途中で諦めるから 途中で投げ出してしまうから失敗なのです




成功するまで

いわゆるその過程においては何回も何回も失敗する事でしょう




しかしそれが成功するまで執念をもって

それこそ貫き通されたら もう失敗では無くなる訳ですね




過程においては失敗が有ったかもしれないけれども

結果オーライと言う訳ですね




結果良ければ全て良しと

いわゆるもう失敗は無いと




その失敗が無いと言う裏には 成功するまで何回も何回も貫くと

執念をもって貫くと言う事ですね




信心も同じで やはり有難くない それならば

有難いと言う答えが出るまで執念を燃やすと言うのか




貫くと言う事が要る と言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます