今日も和賀心学 (2021-12-31)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
和賀心、和らぎ賀ぶ心、その賀ぶ心はどうしたら頂けるのか。欲しくてたまらなかったものが手に入った時の喜びはひとしおだと思う。我情我欲が薄くなると喜ぶことも薄くなる。どうでも良いものを与えられても喜びは薄い。大きな喜びが頂きたいなら大きな欲を持たねば。人の助かりを欲する欲が膨らまねば。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 226頁)
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合掌
中原博信
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御理解 第11節
神は天地の守りじゃから
離れることはできぬぞ
神さまが離れることが出来ぬと仰せられているのだから
人間氏子がこの神さまを離すことは出来ぬ
とわかり悟らせて頂くところから はじめて
あいよかけよ の世界が開かれ
神さまと氏子(私共)の歓び合いの生活が出来るようになる
御教えはすべて其の手立てである
歓び合いの生活と仰って居られます
また和賀心と 和らぎ賀ぶ心
その賀びの心についてなのですが
賀びの心とはどう言う時に頂けるものだろうかと思います
実は私にはその賀びの心が少ない 薄いのですね
何故だろうかと
その若い時にはもっと喜んでいたと思うのですけれども
最近は喜ぶ事が余り無いと
どう言う時に喜んでいるかを
自分を振り返って見ました時に
あれがしたい これがしたい
あれが欲しい これが欲しいと言ったものが叶った時
特に恋い焦れていたものが
中々手に入らない
その手に入らない様な恋い焦れているものが手に入った時
望外の喜びですね
ところが我情我欲を放れると申します
我欲が段々放れて行くと あれが欲しいとか これが欲しいとか
あれをしたいとか これをしたいとか言う思いが薄くなって参ります
それにに従ってその喜ぶ心も薄くなる そんな感じが致しますねぇ
例えて言えば 右に行きたいと願って居った
それが中々行けなかった
そしてお許しが出て右に行ける様になった
これは喜びですねぇ 嬉しいです
ところが右に行きたいと願わない
右でも良い左でも良い どうでも良いと言う心の状態になった
そしたら右に行きなさいと言われた
もう右でも左でも どうでも良いのだから
今更右になったからと言って
喜ぶと言う事は有りませんねぇ
言わばそこに欲しているものが与えられる そこに喜びが湧いて来る
と言うのが 大体の人間ではないでしょうかね
ですから
例えば小さな子供と致しましょうか
2~3歳の小さな子供に
それこそアメ玉とダイヤモンドを目の前に置いて
どちらを が喜ぶだろうかと
大抵の子供はアメ玉の方が それこそ食べてみて
口に入れて甘くて美味しいから そちらの方を選ぶのでしょうねぇ
ダイヤモンドをもらったからと言って
その価値に気付かない訳ですから
有難くも何とも無い
寧ろアメ玉の方が喜ぶと言う様に
その人の心の状態 何を欲して居るか その欲するものによって
その欲するものが与えられた時に喜びが湧いて来る
ですから我情を鎮め
我欲がコントロールされ 我欲が無くなって来る
欲が無くなって来る とその表裏に有る様な喜びの心も薄くなって来る
と言う事になる様ですねぇ
それこそダイヤモンドを欲しいとも思わない人に
ダイヤモンドを与えたからと言って喜ばない
お金を欲しいと言う人 例えば日本人ならお金が 円が欲しいです
ですから 1億円 2億円 それこそお札を積まれたら喜んでもらいます
ところが南海の小さな島に行って そこの島の住人に
1億円 10億円の札束を積んで渡したとしても 喜ばないでしょう
別に その価値が無い訳ですからねぇ
せいぜいどうするのでしょうかねぇ
鼻紙に使うのか 燃やして使うのか
お金としての値打ちが無い 円を欲して居ない
だからそれをもらったからと言って
喜ぶ訳ではありませんね
喜ぶと言う事の前には やはりその事を欲すると言う事が要る
と言う感じが致しますね
では私どもが我情を鎮め 我欲をコントロールする
その我欲が無く 段々無くなって行く
我欲が段々無くなって行ったら
その欲する心が少なくなる訳ですから
それに応じて与えられた時の喜びの心と言うものもまた薄らいで来る
少なくなる と言う事になってしまいますねぇ
我欲が無くなるに従って喜びの心も減少して行くと言う事ですねぇ
これではいけませんねぇ
和らぎ賀ぶ和賀心
と教えて下さる
その和賀心をこの世でもあの世でも求めるのだ
追求するのだと師匠は教えて下さる
ではその賀の心を追求する
賀びの心を頂きたいと思う
ならば何かを欲しなければならないと言う事になりますね
その欲するものが与えられる所にやはり賀びが湧いて来る
さあその欲するものが何か
と言う事ですねぇ
また神様も喜んで下さる様なその欲するもの
欲望 欲求と言うのは何だろうかと
これはもう我欲が薄くなるに従って
別の欲が膨らんで来なければなりませんね
それこそ それこそ教祖様が仰る
私には人を助けたいと言う欲が有ると
人様に助かって頂きたいと言う欲が有ると
この 人様が助かられる 人が助かる 人を助けたい
人に助かってもらいたい
と言うこの欲が愈々強くなって来なければならない
人間の子供で言えば アメ玉が欲しいと言っていたその欲から
いやそれ以上にお金の方が価値が有る
ダイヤモンドの方が
それこそお金は国によって値打ちが違いますが
ダイヤモンドならどこへ持って行っても
それ相当の値打ちが有る訳ですから
1万円札や 10万円 或いは 100万円のお札よりも
ダイヤモンドであったり金である方が値打ちが有る事になりますねぇ
そう言うものを欲する
欲する様になる
私どもの心が やはりそう言うものを欲する心が段々薄くなり そして
その次にもっと神様の欲せられるものに近い欲が愈々募って来る
それは人が助かりさえすればと言う
人を助けたい 人が 人様に助かってもらいたいと言う
そう言う欲が愈々膨らんで来る事だと
そしてそこに 人が助かる 一人でも多くの人が
あの人が助かった この人が助かった
この人がおかげを頂いた あの人がおかげを頂く
と言うそこに喜びを感じる
そう言う人が助かる事への欲と言うものが
愈々育って来なければならない
そしてそこに人が助かる事に喜びを感じるその喜びが愈々膨らんで来る
そう言うお育てを頂かねばならないと言う事ですね
我情我欲が薄くなって来ると
それに伴う喜びも薄くなります
だからその代わりの欲が育って来なければならない
膨らんで来なければならない
それは人を助けたいと言う欲だと
人の助かりを願う欲だと
これは勿論神様もそれを願って居られる訳ですから その賀びは
神様と共に分かち合う賀び と言う事にもなって来るのでしょうね
我欲を無くす と同時に人の助かりを欲する
その心が育って来なければならない 膨らんで来なければならない
そう言うお育てを頂かねばならない
と言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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