今日も和賀心学 (2021-12-02)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
師匠大坪総一郎師は、信心の究極は生神への精進だと教えて下さる。神の氏子である人間が正しく成長し神に成ること、その精進の為にこの世に生を受けたのだと言うこと。それは肉体が成長して神の身体に成ると言う事ではない。人間の心が成長して神様の御心と同じ心を持つ生神に成長することだと思う。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 116頁)
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合掌
中原博信
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御神訓
食物はわが心で毒にも薬にもなるものぞ
一粒の米 一滴の醤油でもお粗末にしてはならぬ
という心掛けが大切です
しかし余ったからと言うて
カスッて食べる心はおかげになりません
親神の 願に生きる 吾なれば
小さき事にも 心許さず
この師匠が仰って居られる
カスッて食べる心はおかげになりません
ここがいつも私には気にかかる所です
なる程ご飯でも茶碗の中に残っているご飯粒ですか
これを一つ粒残らず食べようと致します
或いはお皿のおかずでもやはり頂こうと致します
その大切にする心から頂こうと言う
これはやはり子供の頃からそう躾けられたと言うのか
そう教え込まれたと言うのか そう言うものが有りますから
やっぱり一粒残らず頂こうと致します
けれどもここで師匠が そのカスって食べる心
それはおかげになりませんと仰って居られる所ですね
なる程 勿体ないからと言って頂こうとする
そこまでは良いのですけれども
それが過ぎる カスって食べると言う所は
ある意味卑しい心に繋がるのではないかと思いますね
大変微妙な所が有る様に思いますねぇ
特に好きなものであったりすると それこそ皿をなめてでも食べよう
と言った様な最後の最後までと言った様な所が無きにしも非ずですね
そう言う何と言うのでしょうかねぇ 卑しい心
それがカスって食べる なめてでも食べようと言う
それはもう大事に頂くと言う世界から逸脱している
と言うのでしょうかね そういう言わば貪欲な世界と言うのですか
そこに入ってしまったら
それはおかげはないよと言う事だと思いますね
微妙な所ですけれども
心して行かねばならないとこだと思います
大切に頂くと言う事は良いけれども
それを貪欲なまでにカスって食べる様な事であったのでは
それは逸脱していると言う事ですね
師匠が神様の心を心とすると言う事を教えて下さいます
人間 神様の心を心とするものだと
そしてまた信心させて頂く
それは生神への精進だとも教えて下さいます
神に成る為の修行だと
人間はこの世にはそれこそ神に成る為に生まれて来たのだと
神に成るとはどう言う事か
それはやはり 心が 神様の心を持つ事だと思いますね
正に神の心を心とする
これが生神の誕生と言う事になるのでしょうね
では神様の心とはどう言う心か それはそれこそ
天の心 地の心 日月の心を持ったのが 持っているのが神様だと
天地日月の心が神様の心だとも教えて頂きます
神様の心にも色々あるのでしょうけれども
中でも私どもが身に着けねばならないのは
天地日月の心だと
そして今朝もう一つ
思わせて頂きましたのは
この神様は万年億年かかってでも人間の幸せを
人間の助かりを願って居られる 祈って居られる神様だと
ここがやはり一切神愛論の出発点だと思いますね
人間の助かりを願って居られる神様なのだと
だとすれば神様の心を心とする 私どももやはり人間の助かりを願う
願えれれる私どもにならねばならないと
一人でも多くの人が助かられる事を願う そう言う心を私どもの中に
心が育って来なければらないと言う事になりますねぇ
ですからよく何々教会の発展を願うとか
何々教団の発展を願うとか申しますけれども
そう言うものは まあ何と言うのでしょうかねぇ なる程
信心を進める一つの方便として使うのは良いのかもしれませんけれども
本気で教会の発展を願ったり
本気で教団の発展を願うと言うそこで止まっていたのでは
神様の心を心とすると言う事の本意とは
違う様な感じが致しますね
神様の本心は
どこまでも人が助かると言う事
その人が助かると言う事の付録の様にして教会が発展する
教団が発展すると言う事は有り得るのでしょうけれども
教団の発展を 教会の発展を先に願う そしてまた
人助けをしようとすると言う事では本末転倒と言う事になりますね
どこまでも人が助かる その事を願わせて頂く
人が助かる事の為に さあ何をどうさせて頂いたら良いのか
一人でも多くの人が助かる事を願う心が愈々強く成って来る
そう言うおかげを頂きたいものですね
人の助かり 一人でも多くの人が真に助かられる事を願う心
その心が 神の心 まあそれが全てではないかもしれませんけれども
少なくとも神様の心を心とする
からには一人でも多くの人が助かられる事を願う
その心が愈々切なものになって来る
そう言う御育てを頂かねばなりませんね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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