今日も和賀心学 (2021-12-22)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
20年以上使わせて頂いている掃除機が壊れた。新しいのを購入させて頂いた。昔のは紙バッグ式で中のゴミが見えないが今度のは透明で外からも見える。人は中々自分の顔の汚れが見えない様に心の汚れが見えない。他人の心の汚れは良く見える、見えた時はそれを己の心の写し鏡として自らの汚さに気付く時。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 386頁)
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合掌
中原博信
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御理解 第64節
此方は参ってたずねる所がなかった
氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが
信心して徳を受けて 身しのぎをするようになれ
求めているものが与えられない淋しさ 悲しさ
時には腹立たしくなることさえある
我が身の不徳を悟り
信心の奥処を尋ねたずねして行くうちに心も開け(心眼)
求める以上 願う以上の夢にも思わなかった
おかげの世界に住むことが出来るようになる
信心して徳を受けて身凌をするようになれ
とはこのような事をいうのである
心も開け
と師匠が教えて居られます
心が開ける
心が開けなければなりませんけれども
その心を開く為には
自らの心が未だ閉じている
いわゆる大きく開いていない 心が小さい
狭い心だと言う事に気付かねばなりませんね
自分の心が閉じている事に気が付かないならば
開こうにも開き様が無いと言うものですねぇ
またその自分の心が開いているのか
閉じているのかさえ分からない事が多いのではないでしょうかね
2~3日前でしたか 前の月次祭の時でしたか
掃除の時に掃除機が壊れているのに気付きました
気付かせて下さったのですねぇ
掃除機を使うとゴムの焦げた様な臭いがして来ました
中のローターと言うのですか
そこに使われているゴムが焼けていたのですね
それはローターの軸が片減りをして上手く回らない
ですからモーターだけが空回りして
ゴムが動かないから その摩擦でどうも焦げていた様ですね
もう 20年以上使わせて頂いているシンプルな掃除機ですけれども
それが愈々 また少し動かすと動くのですけれども
愈々壊れかけて来たと
それで昨日 そのままだと掃除が出来ませんから
新しい掃除機を購入させて頂きました
それで思わせて頂くのですけれども
その今まで使わせて頂いていた掃除機は紙バッグが付いていて
その中にゴミが溜まる仕組みなのですね
それで中のゴミが どれくらい溜まっているのかとか
そう言うものが全然見えない訳です
ところが昨日購入させて頂いたものは
最近はその紙バッグを使わない方式が多い様ですねぇ
直接ゴミ箱にゴミを捨てると言う
そのゴミがどれ程溜まっているかが外から見えるのですね
透明のプラスチックで
そのゴミの溜まってるのが見える
昔の 使わせて頂いていたタイプは 紙バッグの中に収まる方式で
ゴミがどれ程溜まっているかが見えないタイプでした
その事を今朝の心中祈念の時に どう言う神様が
何を教えて下さっているのだろうかと思わせられましたが
ああこう言う事であろうかと
思わせて頂いたのが
これからはその 私どもの汚い心 その何と言いますかねぇ
賤しい心であったり 心の汚れが有りますねぇ
そう言うものを一目瞭然に見る事が出来ると
まあ見せて下さると言うのでしょうかね
今までは中々その汚いものが
自分の心の汚れが見えなかったと
確かにそうですねぇ
私ども中々自分の心の汚れている部分とか
自らの心の浅ましい部分
何とまぁ汚い私だなと言うものは中々見えませんねぇ
自分の改まるべき所
と言うのが中々見えない訳です
顔に汚れが付いていても見えない
のと似た様なものかもしれませんね
ところが人様の心の汚れとか 人様の汚さ 賤しさ 浅ましさ
そう言うものは良く見えますね
ところが自分の心は
中々自分の浅ましさが見えない
そこなのですね 顔の汚れは鏡を立てて見るしかありません
では自分の心の汚れは何で見るのか
それは人様の汚れが見えた時に
ああ言う汚れが私の心にないだろうか
ああ言うあの人の浅ましさは これはきっと
私の中にある浅ましさを神様が気付かせて下さっているのだ
と 人の振り見て我が振り直せ
ではありませんけれども
人様のその汚い心が見える時には
私の中にもそう言う汚い心が有るに違いない いや有るのだ
それを神様が人を あの人を通して気付かせて下さろうとしておるのだ
と言う頂き方をして行かねばならないと言う事でしょうね
そう言う頂き方をすると その人の汚い所が見える時
それは自らの心の汚いものを神様が見せて下さっている
あの人に改まってもらおうではなく
これは私の心の汚い所を改まって行かねばならないのだ
ここの所を改まって行こう
と自らの改まりの材料とさせて頂く
言わば自らの心の汚れている所
汚い所が見える様になると言う事ですね
どうでもそう言う
見る事 見る事 自分を見る事と言う
自分の汚さ浅ましさが見える様なおかげを
頂かねばならないと言う事ですねぇ
これはその気にならなければ中々見えません
ついつい人様の汚い心は良く見えます
その事を通して自らの心の汚さに気付かせて頂く
と言う見方をして行かねばならない
そうすれば沢山の汚い所が 浅ましい所が
汚れを落とさねばならない所が見えて来る
そう言う世界に住めよと
言う事だと思わせて頂きました
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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