今日も和賀心学 (2021-12-20)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
今朝は、その不自由を修行とすると頂いた。歯が痛くて、今まで自由気ままに食べていたピーナッツが食べれなくなった、その不自由を人が助かる為の修行としようと言うのである。それを神様が修行として受け取って下さるならば、これ程有難い事は無い。陽光に感じる神の大恩、更にここに感ずる神の大恩もある。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 62頁)
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合掌
中原博信
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御神訓
わが身はわが身ならず
みな神と皇上との身と思い知れよ
神の大恩を悟ってはじめて
神恩報謝の生活ができる
国恩を感じて 社会奉仕の心が生まれ
国民の務めを 果たすことが出来る
神の大恩
と教えて下さいます
その神の大恩の中にも
色々有ると思いますね
普通はそれこそ空気が有るとか
お生かしを頂いているとか
食物が頂けているとか
様々な事を大恩として説かれます
陽光のお照らし等もそうですね 雨が降る これも神の大恩だ
陽がお照らしなさる これも神の大恩だ
いわゆる一切が神の大恩と頂けれる様になると
占めたものでしょうけれども
教えを頂いて
教えて頂いて そう言う事が段々分からされる
そう言う神の大恩を 説くと言うのでしょうかねぇ
教えて頂くと言うのでしょうかねぇ
難儀などもそうですねぇ
やっぱり難儀を通して心を育てて下さる
そのやはり一切神愛にしても
その神様の大恩が分かる事だと言う事ですけれども
今朝頂きますのは 別の角度からの
なる程これも神の大恩だなと言うのが有ります
それは 今朝は その不自由を修行とする と頂きました
その不自由を修行とする
どう言う事かと言うと 例えて言えば
今 歯が痛んでいます 今は治まって居りますけれども
それで固いものが食べられません
目の前にアーモンドチョコレートですか が有ります
食べたいと思います
以前でしたら直ぐ手を出して食べて居りましたが
今は一寸躊躇します
チョコレートだけなら口の中で溶けますけれども
やっぱりアーモンドを噛むと 歯が痛くなって食べれませんねぇ
噛めません 固いのが噛めません
食事でもそうですねぇ 固いものが 普通の葉っぱですか
お野菜 これも噛むと歯と歯がガチッとするので痛くて噛めません
ピーナッツとか勿論固くて食べられませんねぇ
歯が痛くなります またそれが何と言いますかねぇ
熱いもの これもまた歯に沁みて 熱いのが飲めません
冷たいものもやっぱり沁みて痛くなって頂けませんね
そう言う不自由を感じます
そしてあれが飲みたいな これが食べたいなと思う時に
ああこれを食べたら歯が痛くなるなと思うとやはり 手を出せません
今まで自由勝手に 自由気ままに食べれていたものが食べれなくなった
いわゆる大変不自由な世界になって来た訳ですね
その自由な世界に居た時の御礼を申せる様になる と言う事も
また素晴らしい事に気付かせて頂くと言う事でしょうけれども
今日頂きますのは それにも増して
その今までは自由にしておった
それこそピーナッツの様な固いものでも
食べれておったものが食べれなくなった
言わば食べたいものを食べれない
今まで自由であったものが 不自由な世界に入って行く訳ですね
そしてその これは歳を取ればそうなるのかもしれませんが
そうなったらそうなったで
その不自由になった事を
これを修行としてさせて頂こうと
今までは硬いものをガリガリ食べられた
せんべいなどでもバリバリ食べられた
それがもう食べられなくなった
不自由ですね
その不自由になる事 食べられない事
これを修行とさせて頂こうと言う訳ですね
そしてそれを神様が 修行とする 修行としようと言う所に
修行として受け取って下さる と言う世界が有る様ですね
それこそ今まで食べられておったピーナッツが
食べれなくなった
よしこれを人が助かる事の為の修行とさせて頂こう
とその不自由を修行とする
そこに その事を修行として神様が受け取って下さる
そう言う世界が有ると言う事ですね
それはまたそれで有難いなぁと
今朝は心中祈念の時に思わせて頂きました
不自由であると言う事を修行として
神様が受け取って下さると言うのですからね
いわゆるここに神の大恩を感じる訳ですね
痛い痒いの中に なる程その痛い痒いを通して心が育つ
と言う大恩と同時に
その痛い痒いと言う事を
人が助かる為の修行として神様が受け取って下さる
その神様が 不自由を修行として受け取って下さる
と言う そこに対する神様への大恩と言う事ですね
とかく修行は付き物のです
師匠はそれこそ修行精神の旺盛な方だったと思います
様々な直信先覚がされたと言う修行を に取り組まれました
それでもおかげにならないと
そこで自分の身の上に起こって来る事柄
言わば成行きですね
これを 私にかけられた神様の願いが成就する為の修行として
受けさせて頂きます とお届けされましたね
言わば その成行きを受ける事を修行として
自分の 自分にかけられた神様の願いが成就する事の為の修行として
受けて行こうと腹を決められた訳ですね
言わば師匠の生き様には 修行として受けて行く
修行をさせて頂こう 一修行させて頂こう
と言うその修行精神が旺盛だった
と言う事が分かりますねぇ
修行もせずに和賀心を頂こうなんて
とも仰って居られましたからねぇ
そしてその不自由を修行とする
しようと言う所に
神様が その不自由を修行とする
それを修行として認めて下さる 受け取って下さる
それを人が助かる為の修行として 神様が受けて下さる
これはこれ程有難い事は有りませんねぇ
神様が修行として受けて下さらない雑行をしても
それは自己満足と言うのか 意味が有りませんからね
神様が修行として認めて下さる様な修行をさせて頂く
その修行が 神様が修行として認めて下さる そこが大切ですね
そこに神の大恩を感じる と言う
大恩の感じ方が有りますね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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