2021年12月19日日曜日

人が助かる為の修行として頂く (2021-12-19)

 今日も和賀心学 (2021-12-19)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


師匠大坪総一郎師は、私の辞書には難儀と言う字は有りませんと仰って居られた。では師匠の身の上に痛い痒いが無かったのかと言うと、やはり生身の人間、痛い痒いも有られた。しかしそれはいわゆる難儀ではなかった。おそらく人が助かる為の修行として頂いて居られたのだと思う。人が助かる為の修行として。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 368頁)


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合掌

中原博信

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御理解 第58




人が盗人じゃと言うても 乞食じゃと言うても

腹を立ててはならぬ 盗人をしておらねばよし




乞食じゃと言うても もらいに行かねば乞食ではなし

神がよく見ておる しっかり信心の帯をせよ




一把の割木がある ゆるんでいる

数本加えたらシッカリと締まった




シッカリ信心の帯をせよ とは

その内容を加えて行くことである




木とは気 即ち心のこと




その内容を加えて行く事であると

信心の内容を加えて行く




その信心の内容とは

何だろうかと思いますね




師匠大坪総一郎師が

私の辞書には難儀と言う字は有りません




と豪語されたと言うのでしょうかねぇ そう仰って居られましたね

私の辞書には難儀と言う文字は有りませんと




しかしだからと言って師匠の身の上に痛い痒いが無かったかと言うと

そう言う訳では有りませんね




確かに師匠が

難儀は無いと仰いましたけれども




師匠ご自身が痛い痒いが無かったかと言うと

そう言う訳ではないと言うのですね




私どもでもやはり痛い痒いが有ります




お腹が痛い 頭が痛い 歯が痛い

また色々な問題の様なものが起こって来たり致します




ここ昨日今日 今日は今日ですから

昨日一昨日と言う事になりますか 娘のパソコンが動かなくなったり




昨日は月例祭のお掃除をさせて頂いていましたら

掃除機が動かなくなりました




そしてまたお湯を頂こうと思って電気ポットの所に行きましたら

電気が点いていません 通電していないのですね




お湯は暖かかったので

ほんの少し前に電気が切れたのですね




コンセントを別の所に差し込みましたけれども

それでもやはり電気が来ません




どこかやっぱり故障して電気が通らなくなった様ですね

色んなものが立て続けに故障を致します




さあそう言うものを難儀として取るのか

難儀と言えば難儀ですね




歯が痛い 難儀と言えば大変難儀です

師匠にもそれこそ苦しい 身の上に苦しい事 痛い痒いは有られた




しかし師匠は それを難儀とは思って居られない

私の辞書には難儀と言う字は有りませんと喝破されている訳ですからね




ではどうして居られたのかと言う事になります

その内容ですね 今思いますに それは恐らく




師匠はそれこそ痛い痒いが身の上に有ったとしても

それを修行として頂いて居られた




修行は無いとは仰って居られませんからねぇ

その修行も どう言う修行かと言うと




自分がおかげを受ける為とか

願い事が叶う為の修行と言うよりか




自分自身ではなく

人が助かる為の修行として頂かれて居られたのだろうと




今は思って居りますね




ですから師匠とても難儀は無いと言われるけれども

痛い痒いが身の上に無い訳ではない




勿論生身の人間ですから痛い痒いが付き物ですね




しかしその事を 痛い痒いを

人が助かる為の修行として頂いて居られたのだろう と言う事ですね




師匠の場合は それこそどこを切っても金太郎飴

どこを切っても人が助かる為 と言う事ではなかったのかと思いますね




ですから師匠と同じ様にやはり私どもにも

私の辞書には難儀と言う字は有りません と言えれる様になる為には




私どもがその事を困った事 難儀ではない

よしこの事で人が助かる事の為の修行とさせて頂こう




とその事を人が助かる為の修行とさせて頂こうと言う

何と言うのでしょうかね そう言う頂き方が出来る様になると言う事




その為には それこそ四六時中と言うのでしょうか

一にも二にも三にも神様と仰います様に




一にも二にも三にも人が助かる事を祈る 願う

そいう心が私どもの中に育って来て初めて




身の上に起こって来た事柄を

人が助かる為の修行として頂けれる様になる




そうなった時に もうその事は

いわゆる難儀ではなくなる訳ですね




難儀が無いと言っても痛い痒いが無くなる訳ではない

その痛い痒いが 人が助かる為の修行と頂けれる様になる




そう頂くと言う事ですねぇ




またの師匠のお言葉 御教えの中に

一切が修行と言うのが有りますねぇ




それこそ一切が修行と分かって初めて

和賀心にも近づくのではないでしょうかねぇ




それは何の為の修行か 自分がおかげを頂くと言う事ではない

人が助かる為の修行 一切が人が助かる事の為の修行と頂ける




そのそこに初めて 一切が修行と分かり

初めて 一切神愛と分かる と言う事になりますね




ですから私の辞書には難儀は無い

と思える様になる為には




先ずは私どもの中に 人の助かりが

それこそ真から祈れる 願えれる様になる




そしてその事が 人が助かる事の為の修行として頂けれる様になる

そう言う心が 内容が出来て来なければならないと言う事になりますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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