2021年12月1日水曜日

御教えを行じる喜び楽しさが信心の喜びであり御神徳ともなる (2021-12-01)

 今日も和賀心学 (2021-12-01)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


御神徳を頂くと言うが、教祖様の御教えを読み、あるいは師匠の御理解を頂く、それだけで御神徳が頂けるとは思えない。教祖様あるいは師匠への憧念の心、帰依の心をもってその御教えに取り組むとき御教えに血が通う。その御教えを行じる喜び楽しさが信心の喜びであり、神様も喜んで下さり御神徳ともなる。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 361頁)


ビデオ: https://youtu.be/wv19rHqmGyI

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合掌

中原博信

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御理解第56




日にちさえたてば世間が広うなってゆく

ひそかにして信心はせよ




世間が広うなって行く

と同時に自分の心を寛く大きくして行く事である




ひそかに信心の喜びをじっとおさえて

心の奥に喜びの泉をつくることである




いたずらに ただ日にちが経って忘れていくだけでは

勿体ないことである




ひとりわが道をゆく




信心の喜びとは

何であろうかと思います




一番最初に思いつくのは 神様にお願い事をして

その自分のお願い 願い事が叶う 言わばおかげを頂く




と言う事が信心の喜びの先ず始めに

来るのだと思いますね




確かに神様にお願いして

その願った事が叶う これは喜びですね




しかしその自分の願いが叶う事の喜び これからもう一つ先に進んで

信心の喜び それは神様を実感する喜びでも有りましょう




どう言う時に実感するのか




願って願い事が叶う と言う時ばかりではない

それはやはり御教えに取り組むと言う事だと思いますね




御教えに取り組んで そこに頂く手応え

その喜び も信心の喜びの一つに入るのではないでしょうかね




その教えに取り組む喜び これをやはり体験と言うのでしょうか

体感と言うのでしょうか して行かねばならないと思いますね




師匠が教えて下さる

成行きを大切にする




その成行きを大切にしたら こういうおかげに成った

と言う様な事もその一つでしょうね




あそこで黙って治めた その教えに取り組む喜び

と言うものではないでしょうかね




御神徳を頂くとか

受けるとか申します 申されますか




その例えば師匠の御理解を 音声の御理解を頂いて

なる程なあと思う 合点が行く




あるいは教祖様の御教えを

御理解を読んで なる程と思う




その御理解を頂いただけで果たして御神徳が頂けれるだろうか

御教えが なる程と合点がいった それで御神徳が頂けれるだろうか




どうもただ御教えを頂いた 聴いた 読んだと言うだけでは

御神徳は頂けそうにありませんねぇ




もし御理解を読んで 合点がいって

御神徳が頂けれるものであるならば




沢山の人が頂いているはずですけれども

実際に御神徳を頂いてる人は少ない様ですね




それは御理解を読んだ 頂いたと言うだけでは

御神徳が頂けないと言う事ですねぇ




どうしたら御神徳が頂けれるのか




それはやっぱり神様の御信用ですから

その神様の御教えが血肉になった時ではないでしょうかね




師匠は教祖様が嘘を仰っているはずはないと

教祖様の御教えに嘘があろうはずはない




と師匠は教祖様の御教えが 教祖様が嘘は仰って居られないとして

その御教えに取り組んで行かれた




これは一つの教祖様への憧念心

帰依心と言うのではないでしょうかね




同じ様に私どもは師匠が

それこそ嘘を仰って居られるはずが無いと




師匠への憧念の心 帰依の心を持って

師匠の教えに取り組ませて頂く




その時にその教えが血が通う

と言うのではないでしょうかね




そしてその師匠の教えに取り組んだとき 帰依の心を持って

憧念の心を持って取り組んだ時にその教えに血が通う




そしてそこに神様の御働きが現れて来る

その事がまた喜びともなり 楽しみともなる




教えを行じると言う事が難行苦行であったのでは

とても喜びにはなりませんね




その師匠の教えを行じる事が楽しくもあり 有難くもあり

そしてそこに喜びが湧いて来る




為にはやはりその師匠への憧念の心

帰依の心を持ってその教えに取り組む




そこに初めて御神徳を頂く事が出来る 受ける事が出来る

と言う事になるのではないでしょうかね




そこにはまた改めて 教えに取り組む事の楽しさ 有難さ

喜ばしさと言うものも感じる様になる




これはおかげを頂いた時の喜びよりも

もっともっと大きな深い喜び




しかもそれはただ私どもの喜びだけには留まらない

神様も喜んで下さる 勿論師匠も喜んで下さる




そう言う何と言いましょうかねぇ 神も喜び 氏子も喜び

金光大神も喜び 或いは師匠も喜びじゃと言うおかげと言うのは




そういう御教えを行じた時 あるいは

踏み行のうた時に頂く喜びではないでしょうかね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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