2021年12月29日水曜日

師匠大坪総一郎師は神様の願いと、神様の思いとは違うと (2021-12-29)

 今日も和賀心学 (2021-12-29)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


師匠大坪総一郎師がある研修の時、神様の願いと、神様の思いとは違うと仰って居られた。ある修行生に、神様の思いは分からずとも願いは分かるだろう、とも。願いと思いの違い、私も良くは分からない、宿題だ。しかし神様の思いが分からなければ、もう一段進んだ有難いと言う心は頂けない。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 358頁)


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合掌

中原博信

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御理解 第55




賃を取ってする仕事は 若い時には頼んでもくれるが

年をとっては頼んでくれぬ




信心は 年が寄るほど位がつくものじゃ

信心をすれば一年一年ありがとうなってくる




私 が無くなって行くにしたがって

一年一年有難うなってくる




有難うなってゆかないなら それはおかしいと気づき

我力をとり改まって信心してみよ 必ず有難い心が頂ける




年をとるから位がつくのではない

有難うなること自体が位である




信心はえらくなるとか

かしこうなる稽古でなく有難くなる稽古である




信心は有難くなる稽古である

と師匠は教えて下さいます




どうしたらその有難くなれるか




自分にとって都合の良い事が起こって来る

これがやはり当面有難いと感じる事ではないでしょうかね




ところがその自分にとって都合の悪い事が起こって来た時

中々有難いとは頂けませんね




ではどう言う時に その自分にとって都合の悪い事が

起こって来た時でも有難いと感じれるのか




それは色々有りましょうけれども

それこそあれは 禍福は糾える縄の如くですか




きっとこの次は良い事になると

そう言う先に良い事が来ると言う事を見越すと言うのか




そう言う先を見越して有難くなる

今を忍ぶと言う事かもしれませんねぇ




そう言うここを凌げば 次はもっと道が開ける

と言った様な有難くなる そう言う事も有りましょうけれども




そう言う有難さでは いわゆるいつまで経っても

本当の有難さに触れる事は出来ない様に思いますね




それは自分の身にとって都合が良いと言う事を有難いと感じる

その世界からは抜け出ていないからですね




結局今は苦しいけれども将来は自分にとって都合の良い様になる

その自分に都合の良い様になる事に対して有難いと感じる




その心と言うのでしょうかねぇ

それは変わらないからですね




本当に有難くなる為には その感じる心

感じる所と言うのでしょうかねぇ




何に対して有難いと感じるか

その心が育って行かなければならないと思うのですね




そうでなければ




年をとって位が付くものじゃ 年をとって有難くなるものじゃと言う

そう言う本当の有難さは頂く事が出来ない




どこまでも自分に都合の良い様になる

その事に対してのみ有難いと感じる




そう言う有難さでは本当の有難さに育って行かない

と言う事だと思いますね




では何に対して

有難いと感じる様になるのか




これは一つの宿題かもしれませんけれども

皆さんにも考えて見てもらいたい事なのですが




ある時の師匠の研修テープを頂いて居りましたら

神様の願いと 神様の思いは違うよと仰って居られたのですね




私は今まで神様の願いとか 神様の思いとか

そう言う表現を致しますけれども




殆ど同じ様な感じで

使わせて頂いていたのですけれども




師匠は 神様の願いと 神様の思い

これは微妙に違うと仰って居られたのですね




そしてある修行生の先生の方に

神様の願いは分かるだろう と




その思いは分からなくても 願いは分かるだろう

と言う様な事を仰って居られたのですね




それは恐らくその修行生の先生が頂かれた

お夢であったり その成行きであったり




その中に神様の願いは分かるだろう

と言う事なのですね




果たしてその先生が

神様の思いが分かられたかどうかは分かりません




師匠も 神様の思いは分からずとも

神様の願いは分かるだろう と言う事なのですね




神様の願い 神様の思い

微妙に違うと言う事なのです




そして今日頂きますその 有難くなる稽古だ

どうしたら有難くなれるか




本当の意味においての有難くなる




例えば自分にとって都合の悪い事が起こって来た時でも

将来きっと良い事が有るからと言う有難さではなく




その都合の悪い事でさえも有難いものとして

即 頂ける とすれば




今日それこそ感じさせて頂きますのは

そこに神様の思いが分かると言う事ではないでしょうかね




なる程辛い苦しい けれども神様の思いが分かる

その神様の思いに対して有難くなる




そう言う有難さではないでしょうかね




神様の思いが有難い

神様の思いに感謝の心が湧いて来る 有難い心が湧いて来る




その神様の思いが分かる 感じれて

そこに有難さを感じれれる様になった時




有難くなる稽古と言うその稽古が

一段進んだ時ではないでしょうかね




自分に都合の良い事が起こる

あるいは将来起こるかもしれない




そこだけに有難さを感じる有難さから

もう一段進んで 神様の思いが分かる




その神様の思いが有難い

と言う信心に進ませて頂かなければ




それこそ 有難くなる稽古と言うその稽古が

堂々廻りで終わってしまう




もう一段進ませて頂かなければならない

と言う事だと思いますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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