2022年6月20日月曜日

難儀の正体見たり神愛 (2022-06-20)

 今日も和賀心学 (2022-06-20)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


私どもは怖くもないものを恐いと思い込んでしまう、光が無いからである。幽霊の正体見たり枯れ尾花、陽光のもと正体が知れると幽霊も怖さも消える。信心の光がさすとき難儀の正体見たり神愛とその難儀は消える。更にその神愛即ち神願が成就する所まで進めなければ。為には信心は日々の改まりが第一である。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 340頁)


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合掌

中原博信

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御理解 第49




信心は相縁機縁




難儀が機縁を作り

おかげ が相縁を生む




袖すり合うも他生の縁 と言うなかに

親と呼ばれ子と呼ぶほどの深い縁はなけれども




その深い縁を袖にする親不孝

子不孝のものがある




折角 親神様との縁を頂きながら 親子の縁を結びもせず

神をはなれるほど 神を悲しませることはない




教祖は

信心は親に孝行するも同じことぞや と教え給う




神様との縁を頂く

神様は私ども氏子に縁を作ろうとして居られる




その私どもが 幽霊ですか を見ると

やっぱり大概の人達は怖いと思いますね




何か不思議なもの 何と言いましょうかね

正体の知れないもの それであぁあれは幽霊だと




実際幽霊を見た事がある人が

居られるのかどうかは知りませんけれども




その正体が分からない

それをまた幽霊とも言うのかもしれませんけれどもね




その幽霊 あれは幽霊だと見て そのやっぱり怖いですね

ところがそれが 正体が知れると怖くはないと




あれはなんですか 幽霊の正体見たり枯れ尾花ですか

暗闇でそれこそ怖い怖いと言う思いで見ている




だからそれが幽霊に見えて怖かったと

ところが夜が明けて 次の日に行ってみたら




なんだあれは枯れ尾花だったんだ 何も怖がる事は無かったんだ

と言う事になりますね




その正体がハッキリ分かるから

怖いものでも何でも無かったと言う事になる訳ですけれども




難儀 私どもが難儀と感じるもの

今朝は 難儀の正体見たり神愛 と頂きました




その難儀が正体が分からない だから難儀なのですね 怖いのです

避けて通りたい そこから離れたいのですね




ところがその難儀の正体が 私どもの心を育てたいばっかりの

神様の神愛の現れだ 神愛だと分かると




その正体が分かる訳ですから

もう怖がる必要は無い訳ですね




ところがその難儀の正体が分からない

幽霊だと怖がる訳ですね




難儀の正体見たり神愛

とその難儀の正体が見えなければなりませんけれども




幽霊だと思った枯れ尾花は

白日の下ではそれが枯れ尾花だとハッキリ分かる




では幽霊の正体 神愛 それは難儀の正体が神愛だと見えるには

どうすれば見えるのか それこそ難儀の正体が正しく見える




それはやはり信心だと思いますね 正しい真の信心の光が差すとき

初めてその難儀の正体が神愛だと見れると言う事ではないでしょうかね




やっぱり教えて頂かなければ

その難儀が神愛だとは分かりません




難儀をしている人はやっぱり

難儀は難儀で殆どは終わります




その難儀が神愛だと 心を磨かせたい為の

心を育てたい為の神様の神愛の現れだと




これはやはりその道の方から 或いは体験者から

教えてもらって初めて分かる事ではないでしょうかね




中には天才的な方が居られて 分かるのかもしれませんけれども

大概の私どもにはその正体が分かりません




難儀が難儀で終わってしまいます




師匠大坪総一郎師の御出現によって初めて

その難儀の正体が神愛だと見極められた




そして教えて下さる事になった

と言う事になるように思いますね




ただここで注意しなければならないのは

難儀の正体が神愛である と言う事が分かったと言うだけでは




心がほっとするだけですね

あぁなんだ幽霊じゃなかったのか 枯れ尾花だったのか




あぁなんだ難儀は神愛の現れだったのか で分かっただけでは本当の

いわゆる神愛が成就したと言う事にはなりませんね




それはただ難儀だ それこそ難儀がもとで神様との縁が出来る

その縁が出来たと言うだけで終わったのかもしれませんね




終わってしまうのかもしれませんね




そこからもう一歩更に進んで その神愛が成就する

言わば神愛それは神願とも言えるのでしょう




神様が人間氏子に 魂を磨いてくれよと願われる その願い

その神愛が成就して行かねばなりません




ただ神愛と分かっただけでは駄目ですね




更にその神愛が成就して行かねばならない

神様の願いが成就する所まで行かねばならない




それはそれこそ教祖様も教えて居られる

信心は日々の改まりが第一じゃ と言うその日々の改まり




その難儀と思うていた事は それは

私の心を育てようとして下さる神様の御働きだ であったと分かったら




それならば よしここを改まろう 私の心が未だ小さかったからだ

よしここは一つ大きな心になろう




人を責める様な心が有った

これは私の心が小さいから 了見が狭いから人を責めていた




それこそ私の中に我情我欲が一杯だったから 争いを起こしていた

この我情を 我欲を一つ一つ取り除いて行こう




それこそ天の心を身に着けよう

土の心を身に着けよう 日月の精進をさせて頂こう と




私どもが日々の改まりを続けて行こう と心に決め

そのこの事によってもう一回り大きな心 豊かな心になろう




とする所に初めてその神愛が成就する

神様の願いが成就する事になって行くのではないでしょうかね




ただ それこそ一切が神愛だ

難儀の正体は神愛だった と分かっただけでは




神愛 神様の願い

それが成就したとは未だ言えませんね




私どもの心の改まりがあって初めて

そこに神愛が成就すると言う事になりますからね




そうなった時に そこに至った時に初めて

もうこの問題はクリアしたと神様が認めて下さり




同じ様な問題

同じ様な難儀な事に出くわす事は無くなるのでしょう




しかしまた次の課題と言うのでしょうかね いわゆる

人間の側から見れば 次の難儀がまた来る事でしょうけれどもね




来る事でしょうけれども もうそれが神愛だと

その難儀の正体が分かって居りますから




さあそれならば今度はどこをどう改まって行こうかと

その改まる所に焦点を定めて行く




その何と言いましょうかね

対処の仕方がもう分かっている訳ですから 怖くも何とも有りませんね




そう言う精進が日々続けられる

それこそこれは正直言って限り無い事で有りましょう




もうここまでで十分心が育ったと言うのは

中々そこには至らない




それこそ そこには日月の精進

限り無い精進が有る事でしょう




その限り無い精進 そこにまた 限り無いおかげも頂けれる

と言う事にも繋がりますね




この世は苦の世だ 苦の世界 それは裏返せば

この世は愛だ 愛の世界だと言う事にもなりますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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