今日も和賀心学 (2022-06-19)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
今朝は、この世の真相は一切神愛と頂いた。この世に難儀は無い、難儀と感じる人の心が有るのであり、その真相は神様の愛の現れだと言うことになる。この難儀によって心磨きが出来る、一層信心に励めるとなった時に難儀が難儀様となり忌み嫌うものから御礼の対象へと変わる。先ずは心磨きに焦点を定めねば。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 250頁)
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合掌
中原博信
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御理解 第19節
金光大神は形がのうなったら
来てくれと言う所へ行ってやる
人間教祖を超えたもの
神の心証なしには言い切れぬお言葉だと思います
即ち天地と同根との自信と自覚に立っての正しく宣誓であり
宣言であります
人間教祖を超えたものと
いわゆる生身の人間を超えた世界と言うのでしょうかね
やはり私どもはその超えた世界に
住まわせて頂かなければなりませんね
生身を持つ生身の人間の世界では分かり得ないと言うのか
理解し難い事が有るものですね
今朝もその理解し難い事を頂きましたが
今朝頂きましたのは
この世の真相は一切神愛 と頂きました
この世の真相は一切神愛
師匠が一切神愛と教えて下さる
それですね しかしこの一切が神愛と言う事を言いますと
あそこでこんな難儀な人が居られる
どこそこではそれこそ戦争が起こっている
あそこでは自然災害が起こっている
この前は津波が有ったではないかと 大雨が有ったではないか
ああいう中ででも あれも神愛なのか
とよく突っ込まれますね
ですから私はアインシュタインの相対性理論にも
特殊相対性理論と一般相対性理論が有る
と同じ様に この一切神愛論にも
特殊一切神愛論と言うのと 一般一切神愛論の
この二本立てで行くのが良いのではないかと思いますね
特殊相対性理論と言うのが先に発表されましたね
これは私も詳しくは分かりませんけれども
ある特殊な環境においてと言うのでしょうか の相対性理論ですね
一般と言うのはそれこそ全部全体を含む一般化した理論ですね
その特殊な世界と言うのでしょうか
それを表す特殊な世界での相対性理論と言うのでしょうかね
ですからその特殊な世界での一切神愛と言う事ですね
それはどう言う事かと言うと
師匠大坪総一郎師の祈りの圏内で起きて来る事
それはもう一切が神愛だと言う事ですね
これは先ず確信が持てねばなりません
私にも未だ一般一切神愛論と言うのは分かりません
あそこ ここで争いが起こっておったり
病気災難が有ったり それこそこの度の新型コロナウイルス
これも神愛か と言われてもよく分かりません
しかしそれが 師匠大坪総一郎師の祈りの圏内に居る人の身の上に
起こって来た事であるならば それは間違いなく神愛の現れです
それは確信が出来ます
ですからその祈りの圏内に入って居ればと言う事ですね
それが祈りの圏外であった場合にはよく分かりません
ですから
しかし神様は この世の真相は一切神愛だと仰る訳ですから
一般一切神愛論が本当は展開されるのでしょうけれども
未だ私にはそこまでは
よくは確信を持てません
特殊一切神愛論の世界ですね それは師匠大坪総一郎師の祈りの圏内に
居る者の身の上に起きて来る事柄 それらは一切は神愛の現れだと
神様の愛の現れだと
これはもう間違いの無い真実ですね
しかしやっぱり当の本人にしてみれば
病気は苦しい それこそそう言う祈りの圏内に居っても
病気災難から逃れたい 厄除けをしたい お金持ちになりたい
と言ういわゆる普通の意識の人にとっては 何がこれが神愛かと
病気になった 癌になった お金で苦労している 何がこれが神愛か
人間関係での苦労が有る 何がこれが神愛か
と言われたり
思われたりする事でしょうね
しかしそれも神愛の現れである それが本当に神愛の
神様の愛の現れだと合点が行く為には
私どもの心が その難儀から逃れたいと言う間は
一切神愛と言うその神様の愛は分かりませんね
厄払いをしたい 病気災難から逃れたい お金持ちになりたい
と言う間は 神様の愛は中々分からないと言う事ですね
為にはどうあったら神様の愛を神様の愛として悟る事が出来るのか
それはやっぱり神様が私どもに本当に願って居られる所
その願い 神様の願いを悟らせて頂かなければなりませんね
それは神様が 私ども人間氏子にかけられるその願い
それはやっぱり人間の心の成長
と言う事以外有りませんね
その私どもが 心の成長 魂を磨く 清める
と言う所に焦点が当てられた時に初めて
あぁいわゆる今までは難儀と思うておったけれども
この難儀によって神様が私の心を育てて下さるのだ
なる程商売が上手く行かない
これは私の心根が悪いからだ 私の心根が小さいからだ
お客さんに対する心遣いが間違っていたからだ
ただ自分が儲けさえすれば良い と言う思いが有ったから
そう言う思いの間は
なる程商売は繁盛しない
一時的には儲けた様な事があっても
またそれを無くさねばならない様な事になる
天地の保証が有っての繁盛ではなかった
一時的な繁盛でしかなかったと言う事が分かる様になりますね
全ては神様が 私どもの心を育てたいばっかりの御働きである
それが人間氏子には難儀と見えてしまう訳ですね
これは私ども人間氏子の心が育たなければ
神様の愛と言うものは分かりませんね
どうでもその神愛が 神愛と分かるまでの
心の御育てを頂かねばなりません
それは私どもの生きる焦点と言うものが
単なる無病息災を願う信心であったり
商売繁盛や 厄除け祈願ですか そこに焦点を置かれている
安気安穏な生活をのみ願う信心から
自らの心を清める 魂を清める 心を育てる そこに
焦点が変わって行かなければ 神様の愛が愛として見えて来ませんね
どこまで いつまで経っても
難儀としか思えません
この世は苦の世だ 苦の世界
と仰られた方が居られそうですけれども
本当はこの世は愛だ この世は神様の愛の世界だ
と言う事なのですけれども それが見える為には それが悟れる為には
私どもの焦点 生きる焦点と言うものが
自らの心を育てる と言う事に変わらなければなりませんね
その自らの心に焦点が定められない間は
やはりこの世は難儀だ 難儀の世界だ
とその難儀から逃れたい 難儀を乗り越え様 何とか
この難儀から脱したい と言うそこ止まりで終わってしまいますね
それではいつまで経っても
その難儀から抜け出す事は出来ません
自らの心を育てる そこに焦点が置かれた時に初めて
いやこれは難儀ではなかった 神愛の現れであった
私の心を育てたいばっかりの
神様の愛の現れであった
と 寧ろその難儀に対して 難儀様であったと
お礼を申せる心が育って来ると言う事になりますね
この世の真相は一切神愛
と言う事に一歩でも近づかせて頂きたいものですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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