2022年6月6日月曜日

神様の御心に通う心が開けなければ (2022-06-06)

 今日も和賀心学 (2022-06-06)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


天地に通う、神様の御心に通う心が開けなければならない。ある時師匠大坪総一郎師が御理解下さったことに、龍安寺の手洗い石の、吾唯足知は有名だが、それが単に諦観いわゆる諦めであってはならないと。神様に通う心が開けたら、思い以上願い以上の思いも寄らぬおかげが頂けるのがこのお道の信心だと。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 337頁)


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合掌

中原博信

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御理解 第48




わが子の病気でも

かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ




言うことを聞かぬ時に ままよと思うてほっておくような気になって

信心してやれ おかげが受けられる




安心と慢心は紙一重




放っておくような気 と言うても

横着であってはならず 慢心では尚更いけぬ




医者でも 自分の子供の手術が出来るようになると一人前だと

言われるように メスをとる手に自信が出来るからである




信心も 子供の病気だけでなく 様々な難儀に直面した時

放っておくような気で信心することが出来たら おかげになる




一心の信心修行が出来ている時は不思議な度胸が出来て

同じようなおかげが受けられる




本当は わが子もなければひとの子もない境地が開ければ最高である

ここはもう お徳をうけた者の世界である




安心と慢心は紙一重と

この紙一重と言う信心が有りますね




今日は改めて 今まで私が感じていた事が間違いであった

と言う事を感じさせて頂いています




それは私は例えば 獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすと

そして這い上がって来たものだけを育てる




と言った様な話が有りますね

ですからその千尋の谷に突き落とされて




そこから逞しく這い上がって来る

それを親のライオンは待っている訳ですね




ところが私はこのお話を 別にまた登る必要は無いのではないかと

その谷底へ突き落とされたら谷底で それこそあれは何でしたか




地獄ですか 地獄でも我が一定の住みかぞかしでしたかね

何か詳しくは忘れましたけれども




その地獄でも 地獄とても住処だと言った様なのが

何か有りましたね




その千尋の谷の谷底でも それこそそこに落とされたその事を

その事として頂き そこから這い上がろうなどと言う事は思わずに




そこでそれこそ愉快に有難くと言うのでしょうかね

その成行きを頂いてそこで 谷底で暮せばそれで良いのではないかと




寧ろ谷底に落とされた事 その事を成行きとして

例えば頂き貫くと言うのでしょうかね




そこで良いのではないかと

思っていたのですけれども




どうも師匠の場合と言うのか この御道の真骨頂と言うものは

そうではない様ですね




なる程谷底の生活

そこに神愛を感じ谷底で生きて行こうと腹が決まる




その腹が決まったら 次の瞬間

その谷底から引き上げて下さる働きが有ると言う様な事なのですね




そして思い出させて頂きましたのが

ある師匠大坪総一郎師の許にお届けに 御結界に行きました時に




どうしてああ言うお話をして下さったのか

ある御理解を頂きました




それは龍安寺の石庭ですか あれはつくばいと言うのですか

手洗い石と言うのですか




そこに 吾唯足知 と書いてあるそうですね

それをアレンジしてあると言うのでしょうかね




ところが師匠はそのあの 吾唯足知

あれは諦観だと 諦めの世界だと




これでは本当のおかげの世界ではないと




なる程そう言う吾唯足るを知る と言う境地になった

そう言う境地が開けたと言うだけではそれは諦めの世界だと




本当の世界ではない

と言う様な御理解をして下さった事が有ります




なる程この吾唯足るを知る

これは例えば谷底に突き落とされて




そこでよしここでその事が 例えば谷底に居る事が成行きならば

その成行きを頂いて行こうと




まぁそれだけであるならば 吾唯足るを知る

と相通ずるものが有る様に思いますね




で それで谷底で一生終わると言う事であれば

これはただの諦めだと言う事になりますね




もしそこに本当に何と言いましょうかね

神様の御心に適う様な心が開けたならば




それこそ次の瞬間には

いわゆる漫画などでいくとワープと言うのでしょうかね




唯足るを知ると言う世界から それだけではない

身に余るおかげの世界へと引き戻されると言うのか




連れて行かれると言うのか そう言う働きが有る

そう言う働きを頂けれるのがこの御道だと




そう師匠は教えて下さった様に思いますね




吾唯足るを知る世界に甘んじる

甘んじると言う表現が良いのかどうか分かりませんけれども




その世界にただずうっと居ると言うのでしょうかね

いつまでもそこに安住していると言うのでしょうかね




それはこの道のいわゆる本当の信心の

この道の信心の世界ではないと この神様の御働きではないと




もしそこに何と言いましょうかね

神様が願われている様なその心が開けたら




ただ 吾唯足るを知る世界ではない

それこそ思い以上 願い以上 夢にも思わなかった様な世界へも




何と言いましょうかね 連れて行って下さると言うのか

住まわせて下さると言うのか そう言う世界が有るものだと




これはやはり私どもが 生身を持つ人間である

だからこそ生身を持つ人間として




なる程肉体的に辛い苦しいと言う中で生活するよりか

それこそいわゆる文化的な生活を送れる様に




と言うのが 私どもの願いでもあろうと思いますね

そう言う表現の 何と表現して良いのか分かりませんけれども




いわゆる文化的な生活をもさせて下さる そう言う働きが

働きを起こして下さるのも神様だと言う事なのですね




ただ吾唯足るを知ると言う世界 それは単なる諦めの世界であり

いわゆる神様のおかげを頂いた 信心の世界ではない




そこで止まっていたのでは 本当の神様の御働きを頂いている

とは言えないと言う事なのですね




大変頂き様によっては

紙一重の所ですけれども




私どもの心のあり方も

それこそ紙一重と言うところが有ると言う事ですね




確かに吾唯足るを知ると言う世界

そう言う心が開けなければならないけれども




それが諦めで 諦めでの

吾唯足るを知ると言う事であってはならない




また何と表現するのでしょうかね

別の世界が有ると言う事なのですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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