今日も和賀心学 (2022-06-07)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
今朝は、神様中心の奉仕の生活と頂いた。特に今日はその奉仕の生活と言う所が心に響く。師匠大坪総一郎師も御教え下さるように信心生活とは神様中心の奉仕の生活。奉仕とは無条件の御用であろう。究極は、おかげを頂きたいから和賀心になろうとする様な下心が有ってはならない事を意味していると思う。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 114頁)
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合掌
中原博信
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御神訓
大酒大食するは絶食のもとになるぞ
あれを食べてはならぬ
これは飲んではいけぬという戒律的な教えはない
人間らしい生き方を自然に則して教えながら
絶食の元になるようなことは神さまにもご無礼
自らも身体をこわすことになると教えられたところに
金光教十全の教え躍如たるものを やさしく感じさせるみおしえである
戒律的な御教えは無いと
戒律ではない
その戒律と言うのは こうせねばならぬ ああせねばならぬ
と言うものだと思いますね
この戒律的な教えは無いと言うのが
なる程今日のポイントかなと思いますね
どこそこの宗教には あれをしてはならんとか
これをしてはならん こうせねばならん ああせねばならん
と言うものが有る様ですけれども
このお道ではそう言うものは無いと言う訳です
では確かに御教えと言うものが有ります
しかしその御教えは戒律的なものではないと
強制されると言うものではない
と言うのでしょうかね
実は今朝は起きがけに
師匠の確かミニ御理解の中に有りましたね
信心生活とは神様中心の奉仕の生活を言うのである
でしたかね 確かそんな御教えだと思いますが
今朝はその 神様中心の奉仕の生活
と言う事を頂いたのですが
神様中心の奉仕の生活
その中でも神様を中心にしての生き方と言う事はよく聞きますね
人間中心から神様中心の生き方 それこそ私どもの人間心中心
我情我欲中心から神様の御心を中心にする
言わば その御神意に沿うた生き方になると言う事だと
しかしここに一つの落とし穴が有ると言うのでしょうか
御神意を体しての生活と言いますけれども 言われますけれども
それが何故御神意を体するのか
それが奉仕でなければならないと言う事なのですね
神様中心の奉仕の生活
奉仕と言いますと
いわゆる世間ではボランティアとか言われますね
そう言う事だと思うのです その奉仕と言うのはどう言うものか
ボランティアと言うものはどう言うものか
それは言わば見返りを求めてのものではない と言う訳ですね
そこに仕事をする 仕事と言うのは奉仕ではありませんね
毎日のお仕事 それは仕事をしてお給料を貰う訳ですから
給料を貰う また給料を貰う為に働く と言う訳ですから
それはギブアンドテイク的なものですね
これは奉仕ではありませんね
奉仕と言うのは どこまでもギブアンドギブでしょうか
テイクが無い 言わば天の心と言う事でも有りましょうね
そう言う奉仕の生活 見返りを求めない
例えばこれは厳密に言うと 少し厳しい言い方かもしれませんけれども
おかげは和賀心にあり と教えて下さる
そして私どもは おかげを頂きたいと思う
だからその和らぎ賀ぶ和賀心になろうとする
これなどは もしそう言う心根で和賀心になろうとするので有れば
厳密に言えば奉仕の心では有りませんね
おかげと言うものを求めて
それならば和賀心になろうと言う訳ですから
見返り おかげと言う見返りを求めて和賀心になろうと言う
和賀心が目的ではなく おかげが目的である訳ですから
厳密に言うと
信心生活とは言えない事になりますね
本当の信心生活と言う事になると
おかげが有ろうが 無かろうが 和らぎ賀ぶ和賀心になる
神様が 和賀心になれと仰って居られる
和賀心になる事を願って居られる
だから和賀心を になろうとするのだ
目指すのだと言う事になりますね
そこにやっぱり最初の方は 最初の内は
おかげを目当てに和賀心になろうと致します
何かが欲しいから それこそ人の助かりを願う
人が助かる為には やっぱり御神徳を頂かねばならない
人を助けたいから御神徳を頂こうとする
これも厳密に言うと 下心が有っての和賀心であり
下心が有っての御神徳を頂こう と言う訳ですから
本当の奉仕の生活では有りませんね
神様に本当に通う心ではないと言う訳です
それはおやつを欲しいから親の手伝いをする
と言うのと何ら変わりが有りませんね
お金が欲しいから仕事をすると言うのと
その心根に於いては変わりません
ただ我情我欲をする為のお金ではなく
人を助ける為のお金だと 人を助ける為の御神徳だと
少しは良い様な響きが有りますけれども
その心根と言うのでしょうか
そこにはやっぱりギブアンドテイクの心が有りますね
奉仕では有りません
いわゆる本当の意味での天の心ではない
と言う事になりますね
もし本当に厳密に
神様中心の奉仕の生活と言う事であれば
それは人が助かろうが 助かるまいが 私がおかげを頂こうが
頂くまいが そんなものはもうどうでも良いのだと
ただただ神様の御神意に沿う生き方をさせて頂く
神様が 和賀心を求めよと言われたら和賀心を求める
右に行けと言えば 言われれば右に行く
左に行けと言われれば左に行く
それはただただ神様に喜んで頂きたい
神様のお役に立ちたい
それがどう言うお役でも構いません と言った様な心が開けて来る
一遍はそう言う心が開けなければならないと思いますね
いわゆる完全に神様中心の
それこそどこにも下心の無い 全くの奉仕の生き方
そう言う心が私の中に芽生えて
そしてそれから後に
それこそ神様が 人が助かる事を願うて居られるから
その神様の願いを私の願いとして 人が助かる事を願う
その為のあれであり これである と言う事になれば
これはまた別の話だと思いますね 大変微妙な所です
昨日の話の続きでは有りませんが
紙一重の所が有ります
しかし心を大切にすると言うことからすると
やはり私どもの紙一重の心を見極めて行かねばならないと言う事ですね
神様中心の奉仕の生活
その奉仕の生活でなければならない
おかげ目当て 下心が有っての和賀心
である を求めるのであってはならない
と言う事でも有りますね
大変微妙な所ですけれども
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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