2022年6月11日土曜日

真の信心に真のおかげ (2022-06-11)

 今日も和賀心学 (2022-06-11)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


師匠大坪総一郎師が取り組まれた信心、それは真の信心。そしてその真の信心を伝えようとしておられた。私どもはいわゆるご利益信心を始めそこで終始してしまう事が多い。子供の我儘な願いに似ている。真の信心に依るおかげは、神様が氏子の真の幸福を願って授けて下さるおかげ。真の信心とはその真のおかげを頂き続ける信心。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 196頁)


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合掌

中原博信

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御理解 第1




今 天地の開ける音を聞いて 目を覚ませ




おかげは和賀心にあり

として天地書附を千遍となえても真実のおかげにはならない




断片的なものでなく こわそうとしても壊れない不壊のもの

不壊の和賀心を頂きたい




天地の開ける音を聞いて眼をさますということは

一切神愛と悟れた時である




そこには御礼の対象 喜びの対象にならざるものなし

難儀も苦労もここの所をわからせたい神愛の現われである




神愛の現れであると

神様の愛の現われ




それこそ一切が神様の愛の現れである

と言う事になる訳ですけれども




真実のおかげとも 師匠が表現して居られます

師匠が求められたもの そして師匠がまた伝えようとなされたもの




師匠大坪総一郎師が求められたもの

それは真の信心 だと言う事だと思いますね




なる程信心と言うと

大抵はおかげ信心から入りますね




おかげを求める いわゆる私どもが

あああって欲しい こうあって欲しい




あれが欲しい これが欲しいと言う

言わばある意味 我儘な願いとでも言うのでしょうかね




その子供が親に あのおもちゃが欲しいとか このおもちゃが欲しい

あるいはその甘いものですね お菓子が欲しいと




チョコレートが欲しい キャラメルが欲しいと言った様な

そのいわゆる我儘な願いですね を子供はついつい致しますね




そして親がその子供の言いなりに 子供が欲するものを与える

と言うのでしょうかね 甘やかすと言う様な表現を致しますけれども




その子供が欲する通りに子供に与えていたのでは

子供の成長にとって良くは有りませんね




チョコレートが食べたいと言うからチョコレートを与え

甘いケーキが欲しいと言うからケーキを与え




で そればかりではそれこそ虫歯になって

痛い目に合わねばならない事にもなります




ですから子供が欲しいと言うものを与える

なる程それで子供は喜びます




自分が欲しいものを与えられたら

それで喜びます




しかし親として 子供が欲しいと願うものを与え続ける

と言う訳には行きませんね




将来その事で却って

難儀な目に合う事が分かるからですね




おかげを求めての信心 これはある意味 人間が求めるのは

我儘なおかげの方を求めると言う事が多い様ですね




子供が丁度おもちゃが欲しい チョコレートが欲しい

と言った様な類いではないでしょうかね




師匠が求められたもの

そしてまた師匠が伝えようとされたもの




それはそう言うおねだりをする様な 我儘を言って

その我儘を叶えて下さい と言う様な信心では有りませんね




いわゆる真の信心と言う事ですね

これは真の親孝行と言う事にも通じるのかもしれませんね




ではその真の信心をされた 真の信心をしようとされた

それは真の信者になろう と師匠が決心された




そこから 神様がよしこの氏子に真の信心を手ほどきしよう

と言う事になったのかもしれませんね




それでも最初の内はやっぱり師匠も

おかげ信心であられた様ですけれども




あるところから その愈々真の信心と言う事に

何と言いましょうかね 転換されて行きましたね




ではその真の信心の根底にあるものは何か

それはやっぱり神様のおかげを頂くと言う事ですけれども




我儘なおかげを頂く

私どもが頂きたいと願うおかげを頂く為の信心ではない




そこからもう一歩踏み込んだと

言うのでしょうか




神様が 私どもに授けたい 与えたい

と願ごうて居られるおかげを頂く信心と言う事になりましょうかね




子供が親にせびる信心から

親が子供に授けようとして居られるもの




それを頂こうとする信心

とでも言うのでしょうかね




そう言う神様が授けて下さろうとするおかげ

それを頂いて行こうと言う信心ですね




その為にはどう言う信心をさせて頂けば良いのかと言う

それが真の信心と言う事になるのではないでしょうかね




そしてその真の信心をするところに いわゆる

神様が授けて下さろうとする真のおかげを頂き続ける事が出来る




おかげと言うのはやっぱり

一回ぽっきり頂けば良いと言う訳では有りませんからね




子供が願うおかげと言うのは あれが欲しい これが欲しい

困った時の神頼み的なおかげですね




しかし神様が下さろうとするおかげは

それこそ切れ間なく下さろうとするおかげですね




神様からのおかげが切れたらそれこそ人間

生きて行く訳にも行きませんからね




お生かしのおかげを頂く

と言う事でも有りましょうし




その神様が下さろうとする 授けようとして居られるおかげを

十全に 十二分に頂いて行こう




それがまた人間の真の幸せにも繋がるものである訳ですからね

その神様が下さろうとするおかげを頂き続けて行く




そう言う信心 それが真の信心

そして真のおかげを頂いて行くと言う事ではないでしょうかね




その中には勿論私どもが欲しい 頂きたい

と言うおかげも含まれるかもしれません




あるいは場合によっては

余りチョコレートを食べ過ぎると虫歯になると言う所から




その私どもの願い通り

我儘な願いが叶わない事も有るでしょうね




とにかく私どもが我儘で願うおかげではなく

神様が授けようとして居られる




神様が下さろうとして居られるそのおかげを頂き続ける その

神様が下さろうとしているおかげを 邪魔をしない事にもなりますね




私どもが我情我欲で邪魔をしていると言う事にもなります

とにかく神様のおかげを頂いて行くと言う事ですけれども




真のおかげを頂くと言う事




それは神様が人間氏子の幸せを願って授けて下ろうとするおかげを

それこそ十全に頂いて行くと言う事




為には私どもが

それこそ真の信心に取り組まねばならないと




その第一が成行きを尊び大切にする そこに初めて

神様が本当に下さろうとするおかげを十全に頂いて行く事が出来る




その真の信心 真のおかげを頂けれる真の信心を師匠は取り組まれ

またそれを伝えようとして下さったと言う事ですね




どうでも真の信心をして

真のおかげを頂き続ける信心をさせて頂きたい




為にはその土台となる

成行きを大切に尊ぶと言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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