今日も和賀心学 (2022-06-04)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
今朝の心中祈念の時、この天地金乃神様は人の助かりを願う一念の神様だと思わせられた。そして次に魚の尾びれを頂いた。今思うに、この神様は人を助けたい一念の神様だと信じ切れる事が尾びれともなる、更に信心を進める前進力ともなると言う事ではなかろうか。尾びれ無しには進む事は難しい。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 220頁)
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合掌
中原博信
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御理解 第9節
天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ
信心は心を狭う持ってはならぬ 心を広う持っておれ
世界を広う考えておれ
世界はわが心にあるぞ
せまい心で大きな願いをたてても無理なはなしです
先ずは広い心を願い その修行をせねばなりません
だまって治める信心 即ち土の信心
心は自ずと大きく広く豊かになってまいります
清濁一如の信心もわかります
大願の氏子の上には特別の
親神さまの働きが受けられます
広い心を願い その修行をせねばなりませんと その修行の第一
それが黙って治める信心 土の信心ですと言う事ですね
この黙って治める さんずい偏にム口と書いて治める
いわゆる流れ来たったもの さんずい偏ですね 水の流れ
私どもの身の上に流れ来るもの
これをム口 黙って治める そう言う修行をするのだと
しかし私はこれまでそれが
何でもかんでも黙って治めるのかと思って居りましたら
師匠が意味される所の黙って治めるは
そうではない事がやっと分かりました
何でも無口で黙っておれば良いのか
と言うとそうではない様ですね
御教えはただ杓子定規に文字面だけを頂けばそれで良いと
言う事ではない事が分かりました
そこは言わなければならない 一言言わねばならない所も有ると
黙って治めてはいけない所も有るのだと言う事なのですね
例外の無い規則は無いと言われる様に
やっぱり例外が有ると言うのか
例外と言うのではありませんね
その御教えの真意と言うのでしょうかね
何の為の御教えなのかと言う事が
やはり分からねばなりませんね
何でもかんでも黙って治めればそれで良いと言うのであれば
その人間が口をきくと言う事は必要ない訳ですから
でもそこに口が有る 言葉が有る 会話が有る
黙って治めてはならない時も有るのですね
その辺の見極めがつく様になるまで
これはやはり信心の稽古が要ると言う事でしょうかね
師匠の大坪総一郎師の御教えをしっかり頂いていないと
頂き違いをしてしまう事が有りますね
今朝は心中祈念の時に
この神様 天地金乃神様はなる程 人を助けたい一念の神様だな
神様の御心の中には
人を助けたいと言うその一念しかお有りにならない神様だと
そう言うふうな事を思って居りましたら
思わせられたと言うのでしょうかね そうして居りましたら
何かお知らせに 尾ヒレですね
魚の尾ヒレの部分だけを頂きました
変わった事を頂いたなと思ったのですけれども
尾ヒレだけが有るのですね どう言う事だろうかと思いますね
色々な意味合いが有るのでしょうけれども
今頂いて居りますのは
なる程魚が有る しかし尾ヒレの無い魚は前に進みませんね
前に 魚が泳いで進む為にはやはり尾ヒレが要ります
尾ヒレをパタパタさせながら前に進む
船で言えばスクリューの様なものでしょうかね
その尾ヒレをパタパタさせながら前に進む訳です
私どもの信心 これも例えば今 今朝頂きます
この神様は人を助けたい一念の神様だ
と言うそこがなければ
それが尾ヒレの元になると言うのでしょうかね
それが尾ヒレだと そこがシッカリと腹に入る
そこを信じ切れないならば
例えばこの神様は人間に意地悪をされる神様だとか
人間を何と言いましょうかね 人間に悪さをされる神様だ
と言う様なものが有ったのでは 信心が先に進みませんね
この神様は 人の助かる事だけを願って居られる
その人の助かる 人が助かりさえすれば
と言うその御一念だけの神様だ と
そこに腹が決まった時 その事が信じられた時
なる程 今もしおかげを受けていないと思うならば
どうしておかげが受けられないのだろうかと
今難儀だと思うならば
どうしてこう言う難儀な目に遭わねばならないのだろうかと
それこそ子供が憎くて手を上げる親は居ない
と言った様な事を言われますけれども
今時はドメスティックバイオレンスとか言われて
必ずしもそうとばかりも言えないのでしょうけれども
大体においてそうですね
子供が憎うて手を上げる親は居ないと
子供に本当の事を分かってもらいたい
正しい道に進んでもらいたい と思うから手を上げるのだと
神様が私どもに 例えば今私どもが難儀だと思っている
そう言う御働きを下さる
それは私どもがどこかを改まらねばならないから 改まれよと
ここを改まれよと言う神様のサインでもある訳ですね
ですからこれは さあ神様は
この言わば難儀を通して何を教えて居られるのだろうか
私のどこを改まれば良いのだろうか
どこを改まって行かねばならないのだろうか
と自らを改めて行くその原動力とも
それはやはり前に進む為の教えでもあるのでしょうね
これが 神様が人を助けたい一念の神様だ
と言う所が信じられませんと そう言う発想にはなって参りませんね
その人の助かりを願う一念の神様だ
その神様が 私の身の上に起こして下さる事
これはもう私の助かりを願っての事だ
もしそれが助かりを得ていないならば
これは私の信心にどこか間違いが有るのではなかろうか
私の心構えがどこか間違っているのではなかろうか
と自らを反省し 改まって行く
神様が正しい道へ導こうとして居られるのだと言う事ですね
そこのところが 心が定まりませんと中々本当の信心
言わば信心を進める その尾ヒレともなりませんね
どうでもこの神様は
人間氏子の助かりを願って居られる
その人の助かる事 その事だけを願って居られるその一念の神様だ
と言う事を信じ貫くと言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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