2022年6月5日日曜日

神様の片想いから神愛成就へ (2022-06-05)

 今日も和賀心学 (2022-06-05)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


今朝は、神愛成就と頂いた。神愛が成就したと言う事ではない。神愛が成就する信心を目指せと言う事だと思う。確かに私どもに神様の愛が降り注がれて居る。その神様の愛が成就しないなら、その愛が実らないなら神様の片想いで終わってしまう事になる。神様の愛をしかと受け止めた時その愛が実る。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 377頁)


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合掌

中原博信

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御理解 第61




神より金光大神に

いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ




信心しておかげを受けたら

神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが 真の道をふんでゆくのぞ




金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて

真の信心をさせるのが 神へのお礼ぞ




これが神になるのぞ

神になりても 神より上になるとは思うな




信心生活とは神様中心の奉仕の生活をいうのである

神様を使う信心から神様に使われる信心をめざせ




神様に使われる信心 神様に使うて頂けれる信心

さあその神様から使うて頂けれる私とは




どう言う私だろうか と言う事になりますね

師匠がよく例えば お給仕をする 食事の給仕ですね




その給仕をする方がそれこそ手は泥だらけ

髪はボサボサふけだらけで




そういう方が どうぞご飯をもう一膳どうですかと尋ねられる

そのお給仕の御用をして下さると言う訳ですね




そう言う風な人が どうぞもう一杯如何ですかと言われても

一寸 お願いしますとは言い難いと




言わばこんな何か汚ならしいと言うのでしょうかね 泥の汚れた手で

その手でされたのでは食べるものまで汚れてしまう様な感じがすると




言わばもし本当にお給仕の御用をさせてもらいたいと

喜んで使うてもらいたいと思うならば




それこそ髪は奇麗に洗って結い上げて

手も綺麗に洗って それこそ身なりもちゃんときちんとして




それでそれこそ御用に使うて下さい

お給仕の御用に使うて下さい と手を差し出されるならば




それならば喜んでお代わりもしよう

と言う様なものだと




こちらがそれこそ汚い心と言うのでしょうかね

そう言うもので役に立たして下さい




我情我欲一杯持っておりながら

それこそ何か隙あらばと言うのでしょうかね




その掠め取ると言うのでしょうか そう言う様な

もし思いの有る人が お役に立たせて下さいと言っても




それはとてもは使えないと




やはり心の綺麗な人と言うのでしょうかね

神様が右と言えば右に動いてくれる人




左と言えば左に動いてくれる様な素直な人

そう言う人でなければやっぱり使おうと思うても使い難いと




言う様な事を仰って居られましたね




ですからやっぱり私どもが神様に使うて下さい

神様の御用に立たせて下さい と言うからには




神様から使われ易い あっこの人なら信用してこの事を任せても良い

と思われる様な私どもにならねばならない




先ずそれが先だと言う事になりますね

神様から使うて頂けれる様な私になって




そして神様どうぞお役に立たせて下さい

と言う事になりますね




我情我欲ばっかりの私どもが 神様使うて下さい と言っても

神様が使うて下さるとは思えませんね




今朝頂きましたのは 神愛が成就する

いわゆる神愛成就と言う事を思わせて頂きました




神愛 と師匠は教えて下さいます これがただ神愛

なる程神様の愛が分かる 感じる 悟ると言うだけでは




その神様の愛が成就する 実ると言うのでしょうか

愛が実ると言う事とはまた違うと




神愛と分かるだけではなく その神愛が成就する

言わば実る所まで来てもらわなければ 神様が甲斐が無いと




信心する者の甲斐が無いと言うのでしょうかね

教導する甲斐が無い




どうせならばその 神愛が成就する所まで 神愛が実る所まで

信心を進めてくれ 進めて欲しいと言う事なのですね




ではその神愛が成就する 言わば神愛が実る と言う事は

どう言う事なのかと言う事なのですが 今朝頂きますのは




その私ども人間氏子の中に その神愛が確信が持てる 確信出来る

例えどう言う中にあっても あぁこれも神愛だとその確信が持てる時




その時にその神愛が実った時だと




神様が神愛と言うものを 神の愛と言うものを

私どもにそれこそ愛を降り注いで下さる訳ですね




その愛を私どもが

愛を愛として受け取っていない




それこそ難儀な事だ 神様の愛の現れであるその成行きを

難儀な事だ 困った事だとして受け取っているならば




それはその愛が実っているとは言えませんね

言わば神様の片想いで終わってしまっている訳です




世の中には神様が片想いで終わっている事柄が

如何に多いかと言う事ですね




その愛が 神様の愛が実る為には




氏子の方が神様の愛を神様の愛と実感すると言うのでしょうか

確信すると言うのでしょうかね




信じると言うのか 何と言う表現をするのか

悟ると言う表現でもあろうかとも思いますが




神愛を神愛と悟ると言うのでしょうかね

そこに初めて神様の愛が実る 成就する




そしてその愛が実った暁に そこに何が生まれるか

そこには人の助かりが生まれると言う事なのですね




私どもが真に助かる 真の助かりそれは神様の愛が成就したとき

神様と私どもとの間に愛が実ると言うのでしょうかね




その時が 人が真に助かる事であり またその真の人の助かりが

その人だけではなく周囲の人達をもの助かりにもまたなって行くと




師匠がよく私の助かりの余波で人が助かる と言われて居られた

語って居られたその事に何か通じる様な感じが致しますね




師匠の大坪総一郎師のその助かりの余波で人が助かる

人様が助かる と仰って居られた




私どものそれこそ助かりの余波で人が助かる様な御働きを頂く

その為には 私どもと神様との間で神愛が成就する




その神愛が実ると言う事が要ると言う事なのですね

その為にはどう言う中にあっても なる程これも神愛だ




とその神様の神愛を どう表現するのでしょうかね

やっぱり悟ると言う表現になるのでしょうかね




そこに初めて神様と私ども人間との間の愛が実る

神愛が成就すると言う事ですね




そしてそこまでは信心を進めてくれよと

神様が願って居られると言う事ですね




どうでも神愛成就のおかげを

神愛が実るおかげを頂きたいものですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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