2022年6月10日金曜日

願いの信心が最高峰と頂いた (2022-06-10)

 今日も和賀心学 (2022-06-10)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


今朝は、願いの信心が最高峰と頂いた。信心には色々な信心がある。御礼の信心、お詫びの信心、願いの信心とあるが、師匠は中でも願いの信心が最高峰だと教えて下さった。その願いは吾無力を悟り、我情我欲を放しての、私心を放れた神様の願いを吾が願いとしての願いであろう。願わずに居れぬ願いである。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 146頁)


ビデオ: https://youtu.be/_DnOPvtFVd8

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/06-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-06-10.mp3


合掌

中原博信

(ブログ): https://wagakokology.blogspot.com

(Blog-en): https://wagakokology-en.blogspot.com

(ホームページ): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/

(ポッドキャスト): https://anchor.fm/wagakokology-jp

(初代/ポッドキャスト番組名): 大坪総一郎師御理解集

(初代/ポッドキャスト): https://anchor.fm/wagakokorogaku

(初代/ポッドキャスト番組名): 大坪総一郎師御理解集 第2集

(初代/ポッドキャスト): https://anchor.fm/wagakokorogaku-2

(スカイプ会議リンク): https://join.skype.com/ZrgSr5pB6gvS

-------------------------------------------------------


御神訓




信心する人は常に守りを心にかけておれよ




大金を懐中しておるような気持ちでおれ 落としてはならぬ

掏すられたり盗られてはならぬと思うて大事にする




心に神さまを頂き守れ

神さまが御守護下さる




神さまを頂き切っておる時

真心 愛の心がおのずと身についてくる




真善美 輝く世界に 住まんには

真愛の こころ行い おしむべからず




心に神様を頂き守れと 心に神様を頂く

神の心を心とすると言う事にも繋がると思いますね




信心とは この方の信心とは

結局 神様の心を心とする事だと言う事になりますね




師匠は生神への精進とも教えて下さいます

私どもの心が育ち 神様の心と同じになる と言う事でしょうかね




今朝は

願いの信心が最高峰と頂きました




師匠がそれこそ信心を取り組まれる中に

御礼の信心とか お詫びの信心とか 願いの信心とか色々有りますね




その順番は忘れましたけれども

御礼の信心もしておられますね




それこそあれにも御礼が言い これにも御礼が言い

いわゆる色々な事に感謝の心を持つと言うのでしょうか




いわゆる有難いと そして

有難うございますと言う御礼を申す信心ですね




これは有難いと言う信心と 有難うございますと言う信心は

微妙に違う所が有りますね




有難いと言うのは 自分だけの有難さでしょうけれども

有難うございますと言うのは 神様に対して 神様の御恩を分かり




それこそ神様への感謝の心を持つ

と言う事でしょうからね




ただ有難いと言うのは 自分にとって都合が良いから自分が有難い

と言うだけの事でしょうけれども




御礼の信心 感謝の信心と言う事になりますと

自分だけではない




その私に 私が私を有難うならせて下さった相手の方が居られる

その私を有難いと言う心にして下さった相手の方に御礼を申す




その相手が誰であったり 彼であったり

ゆくゆくはそれが神様と言う事になるのでしょう




今日あるのはあの人のおかげだ

今日今あるのもあの人のおかげだ




それが神様のおかげで今日の私があるとなった時に

神様への御礼 感謝 有難うございます




神様有難うございます

と言う心が湧いて来る




これは何でも有難く頂くとか 有難いと言う信心とは

また微妙に違った信心ですね




その御礼の信心と言う信心から

三代金光様でしたか




御礼の足りぬお詫びばかりを申して居ります

と仰って居られましたかね




そのお詫びの信心と言うのが有りますね

言わば至らない私 不肖の私と言うのが分かれば分かる程




そこに こんな私で相済みませんと言う訳ですね

そう言う心境にも一度はならねばならないと思いますね




それこそ吾屑の子です

そしてまたその吾屑の子が分かれば分かる程




お粗末御無礼の有る私にでも

こう言うおかげをこうむって居る




信心も出来ませんのに なかなか心の改まりも出来ない

未だ未だ汚い心が有る 未だ未だ心が小さい




にも関わらず神様がこの様なおかげを下さって 有難い事だ

勿体無い事だ とそこにまた神様への御礼の心が湧いて来る




その為にもお詫びの信心と言うのか

そう言うものが有る様ですね




しかし師匠は そのお詫びの信心に入った時には

いわゆる御信者さんの数が半減したと言うのでしょうか




激減したと仰って居られましたね

お詫びの信心も 確かに素晴らしい信心の一つです




自分の事が分かり 至らぬ自分

屑の子吾の自覚が愈々深まって行く訳ですからね




ある一時期にはやはり必要な段階だと思いますね

しかしそこで止まってはならないと言う事ですね




お詫びの信心で一生終わったのではいけないと言う事なのです

ある時期にお詫びの信心に入ると言う事は必要な事かもしれません




しかしそこからまた次の信心へと

移って行かねばならない




そして師匠が最高峰と言われた信心

それが願いの信心ですね 願いの信心が最高峰だと




そのお詫びをせずにはおれない様な 吾屑の子の自覚が出来る

そこから更にお育てを頂かねばならない




それこそこの小さな心が分かり

お詫びを申すだけではいけませんからね




そこからそれならば愈々大きな心にして下さい

大きな心になるお育てを頂かせて下さい




と言う屑の子吾から それこそ その中にも有る生神の性

それを愈々育てて行こう 育てて下さい と言う




そこから抜け出すと言うのでしょうかね 一寸表現が違いますが

そこから次の段階に行く為のやはりこれは願いが要りますね




助かりたい より真実の助かりを得たい

と言う願いでも有りましょうね




こんなそれこそ汚い心ばっかりの 小さな心の私

人を責めてばっかりの私 さあそう言う私から抜け出したい




より大きな心 豊かな心になりたい 美しい心になりたい

そうならせて下さいと言う願いがそこに出て来る




と言う事でも有りますね

またその願いの信心と言うものも




神様が願って来いと 何でも願って来いと仰って下さるからには

そこにはなる程この氏子はもう我情我欲の願いはしないと




自分があれが食べたいから これが飲みたいから

と言ういわゆる我情我欲を満たす為の願いではない




それこそ私心を放れての願いだ




吾無力を悟る 実感する 手の 箸の上げ下ろし一つに至るまで

神様のおかげを頂かなければ出来ない




この一歩が神様のおかげを頂かなければ出来ない私だ

と悟らせて頂いた所からの いわゆる吾無力を悟った所からの願い




箸の上げ下ろしに至るまで 神様のおかげを頂かなければ

と言うおかげを頂かせて下さいと言う神様への願い




そしてまた神様の御心が分かる

なる程神様が人を助けたいと願って居られる




それならばその神様のお役に立ちたい

立たせて頂きたいと言う願い




その神様の御心を心としての願い と言う事になりますね

願わずにはおれない私どもであると言う事ですね




その私心を放れての願いとなった時に

それこそ神様が何でも願って来いと




ですから神様から何でも願って来いと言って下さる様な

私どもの心の状態にならねばならない




そう言う心根にならねばならない

と言う事でも有りますけれどもね




神様の心を心として 願わずにおれない私どもになる

と言う事でしょうかね




そう言う願いは やはり願いの信心が最高峰

と言う事になりますね




どうでもいわゆるその願いの信心 神様から 何でも願って来い

と言って頂けれる様な私どもにならせて頂きたい




そして神様の願いを願いとして

願えれれる様な私どもにならせて頂きたいと思いますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



0 件のコメント:

コメントを投稿