2022年6月12日日曜日

神様にどうしてですかと問い詰める事が要る (2022-06-12)

 今日も和賀心学 (2022-06-12)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


隣に蔵が建てばこちらには腹が立つと言う事がある。私の方にはもっと大きな蔵が建ってもよいはずだと思う、慢心である。その心で神様にどうしてですかと問い詰める事である。神様が、これはまだ私の心が小さいからだ、心が貧しいからだ、精進が足りないからだと悟らせて下さる。愈々精進意欲が湧いて来る。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 344頁)


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合掌

中原博信

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御理解 第50




とかく 信心は地を肥やせ

常平生からの信心が肝要じゃ




地が肥えておれば

肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ




養素拝山 心を養う素は

難儀そのものを拝んでうける修行に徹することである




ご神願がわかり 神愛を悟ることが出来る

筋金入りの信心とは この神愛を頂けたとき




心を養う素は

難儀そのものを拝んで受ける修行に徹する事である と




この徹する事である

と言う所が師匠の信心のミソですね




そしてただそこに 拝んで受けるだけではなく

御神願が分かり 神愛を悟る事が出来る




その難儀をそれこそ拝んで受ける修行に徹した後に

神様の願いが分かり 神様の愛が分かる




そこまで到達しなければならない

と言う事でも有りますね




ただ難儀を頂いている その難儀を土の心で受ける

ただ受けたと言うだけではいけない と言う事ですね




その受ける事に徹して その暁に神様の願いが分かる

そしてまた神様のその神愛が分かる 悟る 悟れる




そこまで徹し貫かなければならない

と言う事でも有りましょうね




昨日は私の中に こんな汚い心と言うのか 人を羨む様な心が有る

のだなと言う事を改めて思わせられた事でしたけれども




その隣に蔵が建てば 腹が立つと言う事を言われたり致しますね

或いは隣の庭がきれいに見えるとか そう言う事も言われますね




ついつい信心させて頂いて居りましても あの教会が発展している

それこそうちの教会よりあの教会の方が発展している




今度良い御普請が出来る となると

ついついどうしてうちの所は と思ったり致しますね




それこそ隣に蔵が建てば 腹が立つ

と言う様な心が人間の中には有りますね




昨日は私にもそう言う心がふと起こって来ました どうしてうちは

それこそ未だおかげを頂けないのだろうかと言う様な心ですね




さあそこから どう言う信心をさせて頂くのか




今朝やっぱりそう言う様な事を心中祈念の時に

思わせて頂いて居りましたら




そこからの信心だと言う事なのですね

ただ隣の人が うちより沢山おかげを頂いている様に見える




同じ様に信心しているけれども

隣の人の方がおかげを沢山頂いて居られる様に思えると言う時に




そのまま 隣に蔵が建って こちらが腹が立つ

どうしてうちはおかげを頂けないのだろうか




と そこで止まっておったのではつまりませんね

助かりにはなりませんね




ではどうしたら助かられるのか 師匠の信心を見る

そこにはこれで済んだとは思いません と言う信心が有る訳ですね




そしてまた大きな心に大きなおかげ

豊かな心に豊かなおかげと教えて下さる




その大きなおかげが頂けていない

豊かなおかげが頂けていないと感じるならば




これは未だ私の信心が足りないのだ

これは未だ私の精進が足りないので




未だ未だ心が小さいのだ 心が貧弱なのだ

と 頂くのが正解なのではないでしょうかね




そして今朝の心中祈念の時に

なる程これは未だ未だ私の精進が足りないのだ




それこそ未だ未だ私の心が小さいからだ

心が貧弱だからだ




だから隣には蔵が建つけれども

私の所には未だ蔵が建たない




それは結局私の信心が足りない 精進が足りないからだ

と言う結論に至りましたね




神様が その隣に蔵が建って 私の心の中に腹が立った

そこで止めてしまえば 腹が立ったで終わってしまう




しかしそこからもう一歩先に貫くと言うのでしょうかね

徹すると言うのでしょうかね




それこそそれは神様に対して どうしてでしょうか

どうしてこうなるのでしょうか と言った様な




何と言いましょうかね 神様に向こうて行くと言うのか

問い正すと言うのか そう言う心が要るのではないでしょうかね




やっぱりそのどうして 何故と言う心は

これは神様に向ける心として 大切なものが有る様に思いますね




そのただ腹を立てて終わってしまったのでは

普通の人と同じですね




その腹が立った心を どうして腹が立つのか

どうしてこうなったのか なるのか




それを神様に求めて行くと言う

言わば神様に問い詰め寄るとでも言うのでしょうかね




そう言う信心がまた要る様に思いますね

そこに初めて神様が それはお前の心が小さいからだ




お前の精進が足りないからだと言う事を

初めて教えて下さるのではないでしょうかね




最初から神様が お前の心が小さい

お前の精進が足りないとご指摘されても 中々ピンと来ませんからね




先ずは私どもの心の中に腹を立てる

隣に蔵が建って こちらの心に腹が立った




そしてどうして腹が立つのだろうか

どうしておかげが頂けないのだろうか




どうして蔵が建たない

私の所には蔵が建たないのだろうか




と言うその ある意味素朴な疑問が生まれて来ますね

それを神様にぶっつけると言う事ですね




そこに初めて神様がそれはこう言う訳だと

お前の心が未だ小さいからだ




お前の精進が未だ足りないからだと教えて下さる

そしてそれならば よしそれならば もう一精進させて頂こう




大きな心になる事に取り組もう

と言う元気も湧いて来る訳ですね




難儀がある その内容を受ける

そしてその受ける事を貫き またそれを神様に問うて行く




神様にぶっつける そしてそこに初めて神様が

こう言う理由だと こう言う信心をせよと 教えて下さる




そこに神様の願いを感じ 神様の神愛を悟らせて頂く事が出来る

と言う事になるのではないでしょうかね




何にも無くて

それこそ結構毛だらけな生活を送って行く中に




そう言う神様に打ち向こうて行こうと言う心は

中々湧いて来ませんからね




難儀と思える様なもの 腹が立つ様な事

そう言う事があって初めて 神様に打ち向かう信心も出来る




そして神願が分かり 神愛を悟る事が出来る

と言う信心の展開になるのではないでしょうかね




養素拝山

その心を養う素は その山を拝む事である




そして拝んだだけではダメで

拝み貫き 神様に打ち向こうて行く




そこに初めて 答えを神様が教えて下さる

と言う事ではないでしょうかね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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