今日も和賀心学 (2022-01-21)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
師匠大坪総一郎師は、信心に修行は付き物と教えて下さる。よく辛い苦しい事や嫌な事があると、よしひと修行させて頂こうとか、これを修行で頂こうと言ったりするがそれとは微妙に異なっている。師匠の修行観は、ただ単にタダでする修行ではない。それが天地に通う修行、神様の願いが成就する為の、人の助かりに繋がる為の修行である。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 130頁)
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合掌
中原博信
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御神訓
信心は本心の玉を磨くものぞや
本心に立ち返るということは
人間 この世に生を享けると同時に神性が授けられる
ところが成長するにしたがい我が芽ばえてくる
神性とは似ても似つかぬ浅ましい苦悩の道へ堕落してゆく
そうした人生の分岐点に立った時
真の道を示してくれるのが真の信心である
真の道を示してくれるのが真の信心であると
その道を示してくれる
ある意味道を示してくれるだけなのですね
この道を行けば良いと示して下さる
ところがある意味
示して下さるだけなのです
その何と言うのですかねぇ
助かりの為には 真の助かりを得る為には
示された道を ああなる程この道を行けば良いのか
と分かっただけでは 真の助かりには入り得ない
道を歩かねばならない
と言う事になりますね
その示して下さった道を歩いて初めて
真の助かりへと導かれると言う事ですね
恐らくこの 道を歩くと言う事 真の道を教えて頂き
そしてその真の道を歩くと言う事
そしてその歩く事によって
真の助かりへと導いて下さる 導き入れられる
真の道 真の教え 真の真の助かりの世界へ入ろうと思えば
その道を歩いて行かなければならないと言う事だと思いますね
そしてその真の道を歩いて行く
その事がいわゆる信心修行と言うものであろうと思うのですね
師匠が 信心には修行が付き物だと教えて下さいます
その修行と言うものはどう言うものか
その修行観がはっきりして居りませんと
いわゆる ただ辛い苦しい事を
あぁこれは修行だな ひと修行させて頂こう
と言った様な事を申します
また ご修行ですねぇ と人に言ったりも致します
それはその人が辛い事 苦しい事に取り組んで居る時
何かしら それこそ病気で苦しんでいるとか
人間関係で苦しんでいる 何か問題があって困っている
そう言う時に あぁご修行ですねぇと言ったり致します
そしてまたその本人も よしこれを修行としようと言ったり致します
ただそこ止まりでは
余り意味が無い様に思うのですね
それはただ痛い痒い 痒いですか
痛い辛いと思う事を言葉を変えただけですからね
ただ修行で言う
痛い辛いと言うのではなく
これが修行だと その言葉を変えて まあイメージを替えて
それを頂こうとしているに過ぎないと言う事になりますね
余り神様の目から御覧になって
まあそれはそれで良いのかもしれません
そうですねぇ 例えば何ですかねぇ
何か目の前に出される これは嫌いなものだ
人参なら人参で嫌いなものだ
これを自分の好きな何か他のものと思って食べようと
口に入れようとする様なものではないでしょうかね
余り意味が無い様に思いますね
大切な事は それが天地に通う 神様に通う修行であるのか
その対価がそこに付いて来るのかと言う事ですね
師匠が
信心には修行が付き物だと言われた
それは信心には辛い苦しいものが付き物だ
嫌な事が付き物だと言うのとは違いますね
その事柄を 例えばその修行を通して
確かに私の心が育っている
その事を修行と頂く事によって
確かに私にかけられた神様の願いが成就して行っている
いわゆる間違いのない修行と言うのでしょうか
正しい行であり 正しい結果がそこに約束されると言う事なのですね
あれは楠木正成でしたか
正しい行に そして正しく育つと言う事なのですね
師匠が 成行きを修行として受けよう
私の身の上に起こって来る事を修行として受けようと
それもただ 私の身の上に起こって来る事を 辛い事 苦しい事として
それを修行として受けようと言うのではありませんね
この事を
私にかけられた神様の願いが成就する為の修行として受けようと
神様の願いが成就する為の修行として受けられた訳ですね
ただ辛い苦しい事を修行として受けようと言うのとは違いますね
何と言いますかねぇ 自分の身を痛めてそこに快感を感じる
と言う人達も居られる様ですね
苦しい事をしてそこに快感を感じる
そう言う修行観とは違う訳ですね
明らかに この事をしたら こう言うおかげになるとか
この事の為の それこそ人が助かる為の修行とさせて頂こうと
何か師匠が
そう言う事を仰られた事が有った様に思いますねぇ
この事を神様の願いが
私にかけられた神様の願いが成就する為の修行として頂こうと言う
この事を人が助かる為の修行とさせて頂きます
と言うその心が天地に通うたのだと
ただ辛い苦しい事を修行としようと言うのではない
根本的に違う所が有りますね
天地に通う修行でなければならない
修行観でなければならない
ただ辛い苦しい事が修行と言うのではありませんね
辛い苦しい事を修行とすると言うのではありません
そこにそれこそ 人が助かる事の為の修行であり
神様の願いが成就する事の為の修行である
と言う明確な目標が有る訳ですね
示されたその道を歩く この道を歩く
これが生神へなる為の精進の修行 とでも言うのでしょうかねぇ
そこに明確な目標を定めての
そこに至る為の修行だと言う事なのですね
その明確な行き着く所 目的地が定まって居りませんと
目的地も定めないで ただこれを修行としようと言うのでは
修行が修行になりませんね
ただの痛い痒い辛いで終わってしまうと言う事になりますね
多少は心が楽になるかもしれませんけれども
天地に通う修行ではない
天地に通う修行であって初めて
本当の修行だと 値打ち有る修行だと
真の助かりへと導かれる為の修行だと
道を歩く事になると言う事なのですね
大変微妙な所ですけれども
どうぞ良く良く考えてもらいたいと思いますね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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