今日も和賀心学 (2022-01-13)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
歌の文句に、ボロは着てても心は錦とあるが、師匠大坪総一郎師は、あれは神様の御心ではないと。子供にボロを着せたい親が何処に居ろうかと言うこと。心が立派に育ちそれこそ錦の心であるならば、その子にボロを着せようとはしなさらない、錦の着物を着せたいと言うのが親心(神心)だと。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 90頁)
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合掌
中原博信
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御神訓
真にありがたしと思う心
すぐにみかげのはじめなり
真実のことがわかるところから
心に湧きおこる心情を真に有難しと言うのです
今の今まで難儀と思うていたことが
神愛とわかる時 限りない喜びが湧いてくる
幸と不幸は 紙一重のものです
そこ深く 静かにしずかに 湧き出づる
愛の真清水 くみてのまばや
真実の事が分かる
と師匠は仰って居られます
その真実の事が分かる
また真実の神様と言うのでしょうかね
天地金乃神様に御縁を頂き
そして真実の事が分かる
そこから心に光が与えられると言うのでしょうか
頂く事が出来ると言うのでしょうか
そこに有難い神様だな
と言う心も湧いて来るものですね
信心にはやはり
師匠の御流儀と言うものが有る様ですね
色々例えばあれは何ですか 剣術ですか
にも何々流 何々流と言うのが有りますね
武術などにもそうですね
空手や拳法などにも流儀流派が有りますね
その師匠の流儀に応じて
何かやはり 型が違って来ると言うのでしょうかね
信心にもそう言うものが有る様ですね
それは神様の御働きと言うものが
その人の心の上に現れて来るものだからですね
一遍通りではないと言う訳です
師匠大坪総一郎師には 大坪総一郎師のやはり流儀が有ります
その許で信心の修行 稽古をさせて頂く者には
やはり師匠の流儀と言うものが流れて参りますね
その一つに 師匠が良く仰って居られました事に
ある歌の文句に ボロは着てても心は錦
と言うのが有るけれども あれは真実ではないと
もし心が錦になるならば
着ている物も錦になる
神様がいつまでもボロを着せておこうと言われる様な神様ではない
と仰って居られましたね
その確かに師匠が修行時代 それは破れ鞄に 破れ靴と言う出立ちで
それこそ信心修行に励んで居られた様です
しかしその破れ鞄に破れ靴
それが一生続かれた訳ではありませんね
それこそ ある時などは あれは何でしたか
どこかの支部祭か 何かじゃないでしょうかねぇ
それで 今私は百万円の帯を締めさせて頂いて居りますとか
そう言う様な事をお話して居られましたね
ただ 勘違いしてはいけませんけれども
私どもが それこそ百万円の帯を締めたいから心を美しくする
心を大きくする と言うのではありませんね
私どもの心が
より豊かになり より大きくなる
そこに神様がそれこそ破れ靴ではない ちゃんとした きちっとした
靴を履かせて下さる様なそう言う御働きになって来ると言う事ですね
大きなおかげが頂きたいから大きな心になろう
豊かなおかげが頂きたいから豊かな心になろう
と言うのではありませんね
ただただ大きな心になる事を 豊かな心になる事を目指し
心が大きくなった 豊かになった
そしたらその着ている物も 破れた物ではなく ちゃんとした物
それこそ勿体ない程の物を神様が着せて下さる様になった
心が錦になったら
神様が 着る物も 錦の物を着せて下さる様になる
それが真実の親心だと言う事なのですね
精進をして心が美しくなった
それなのに着る物はボロボロで
それこそ破れ靴に 破れ鞄を持って
ボロボロのフセだらけの着物ですか 洋服を着ている
それが悪いと言う訳ではありませんけれども
神様が御覧になって
それ程心が豊かに大きく綺麗になったのならば
着る物ももちっと良い格好をさせてあげたい
なる程金襴緞子と言う訳ではないけれども
きちっとした ちゃんとした身なりをさせてあげたい
と言うのが やはり親心でもある訳ですね
何もいつまで経っても
破れた着物を着せておこうと思う親は居ませんね
やはり出来る事ならば良い物を着せてあげたい
と言う親である訳ですね
ですからもしそれが私どもの着る物 身の回りの物が
いつまで経っても変わらないとするならば
それは反対に これは私の心が全然育ってないのだと
大きくもなっていない 豊かにも美しくもなっていないのだと
これはまた反省させて頂かねばならない
のかもしれませんね
神様が私どもの心に応じて その身なりであったり 持ち物であったり
そう言うものも反映させて下さると言う訳ですね
ですから それを向こうに押しやる様な事でも
またいけませんね
神様が 折角きちっとした物を
身なりを整えようとして下さっておるのに
いや私はボロで良いんですと
この破れ鞄に 破れ靴が好きなんです
私はこのつぎはぎだらけの破れた様なこの着物が良いんです
と言う様な事では また親を悲しませる事にもなりますね
その心に応じた身なりであったり 住まいであったり
それを神様が用意して下さる
用意して下さるのならば それを素直にハイと頂き
身に着けさせて頂く それが親の喜びでもありましょうね
折角親がきちっとした身なりをさせたいと言うのに
ボロを着て居ったのでは
今度は神様の方が悲しまれると言う事にもなりますね
この辺は大変微妙な所ですけれども
これは師匠の流儀として
そう言うものが有ると言う事ですね
ですからその良い物を着る
良い物を食べる為に信心するのではない
しかし心が豊かに大きくなる 美しくなったならば
その反映と言うのでしょうか
いわゆる自らの心の写し鏡として
周囲にそう言うものが現れて来るものなのだと言う事です
勿論私どもの心の汚さが
周辺の汚さに現れて来る
と同時に 私どもの心の豊かさが
またその周辺にも現れて来ると言う事なのですね
ですからいつまで経っても
何にも私どもの身の回りの物が変わらないとするならば
それは私どもの心の成長が全く無いと言う事になりますね
大変微妙な所ですけれども師匠の流儀なのですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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