2021年12月31日金曜日

人の助かりを欲する欲が膨らまねば、そこに賀びも膨らむ 2021-12-31

 今日も和賀心学 (2021-12-31)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


和賀心、和らぎ賀ぶ心、その賀ぶ心はどうしたら頂けるのか。欲しくてたまらなかったものが手に入った時の喜びはひとしおだと思う。我情我欲が薄くなると喜ぶことも薄くなる。どうでも良いものを与えられても喜びは薄い。大きな喜びが頂きたいなら大きな欲を持たねば。人の助かりを欲する欲が膨らまねば。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 226頁)


ビデオ: https://youtu.be/J9wX-FHTDVU

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2021-audio/12-audio/Wagakokology_Labo-jp-2021-12-31.mp3


合掌

中原博信

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(初代/ポッドキャスト番組名): 大坪総一郎師御理解集

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御理解 第11




神は天地の守りじゃから

離れることはできぬぞ




神さまが離れることが出来ぬと仰せられているのだから

人間氏子がこの神さまを離すことは出来ぬ




とわかり悟らせて頂くところから はじめて

あいよかけよ の世界が開かれ




神さまと氏子(私共)の歓び合いの生活が出来るようになる

御教えはすべて其の手立てである




歓び合いの生活と仰って居られます

また和賀心と 和らぎ賀ぶ心




その賀びの心についてなのですが

賀びの心とはどう言う時に頂けるものだろうかと思います




実は私にはその賀びの心が少ない 薄いのですね

何故だろうかと




その若い時にはもっと喜んでいたと思うのですけれども

最近は喜ぶ事が余り無いと




どう言う時に喜んでいるかを

自分を振り返って見ました時に




あれがしたい これがしたい

あれが欲しい これが欲しいと言ったものが叶った時




特に恋い焦れていたものが

中々手に入らない




その手に入らない様な恋い焦れているものが手に入った時

望外の喜びですね




ところが我情我欲を放れると申します

我欲が段々放れて行くと あれが欲しいとか これが欲しいとか




あれをしたいとか これをしたいとか言う思いが薄くなって参ります

それにに従ってその喜ぶ心も薄くなる そんな感じが致しますねぇ




例えて言えば 右に行きたいと願って居った

それが中々行けなかった




そしてお許しが出て右に行ける様になった

これは喜びですねぇ 嬉しいです




ところが右に行きたいと願わない

右でも良い左でも良い どうでも良いと言う心の状態になった




そしたら右に行きなさいと言われた

もう右でも左でも どうでも良いのだから




今更右になったからと言って

喜ぶと言う事は有りませんねぇ




言わばそこに欲しているものが与えられる そこに喜びが湧いて来る

と言うのが 大体の人間ではないでしょうかね




ですから

例えば小さな子供と致しましょうか




23歳の小さな子供に

それこそアメ玉とダイヤモンドを目の前に置いて




どちらを が喜ぶだろうかと




大抵の子供はアメ玉の方が それこそ食べてみて

口に入れて甘くて美味しいから そちらの方を選ぶのでしょうねぇ




ダイヤモンドをもらったからと言って

その価値に気付かない訳ですから




有難くも何とも無い

寧ろアメ玉の方が喜ぶと言う様に




その人の心の状態 何を欲して居るか その欲するものによって

その欲するものが与えられた時に喜びが湧いて来る




ですから我情を鎮め

我欲がコントロールされ 我欲が無くなって来る




欲が無くなって来る とその表裏に有る様な喜びの心も薄くなって来る

と言う事になる様ですねぇ




それこそダイヤモンドを欲しいとも思わない人に

ダイヤモンドを与えたからと言って喜ばない




お金を欲しいと言う人 例えば日本人ならお金が 円が欲しいです

ですから 1億円 2億円 それこそお札を積まれたら喜んでもらいます




ところが南海の小さな島に行って そこの島の住人に

1億円 10億円の札束を積んで渡したとしても 喜ばないでしょう




別に その価値が無い訳ですからねぇ

せいぜいどうするのでしょうかねぇ




鼻紙に使うのか 燃やして使うのか

お金としての値打ちが無い 円を欲して居ない




だからそれをもらったからと言って

喜ぶ訳ではありませんね




喜ぶと言う事の前には やはりその事を欲すると言う事が要る

と言う感じが致しますね




では私どもが我情を鎮め 我欲をコントロールする

その我欲が無く 段々無くなって行く




我欲が段々無くなって行ったら

その欲する心が少なくなる訳ですから




それに応じて与えられた時の喜びの心と言うものもまた薄らいで来る

少なくなる と言う事になってしまいますねぇ




我欲が無くなるに従って喜びの心も減少して行くと言う事ですねぇ

これではいけませんねぇ




和らぎ賀ぶ和賀心

と教えて下さる




その和賀心をこの世でもあの世でも求めるのだ

追求するのだと師匠は教えて下さる




ではその賀の心を追求する

賀びの心を頂きたいと思う




ならば何かを欲しなければならないと言う事になりますね

その欲するものが与えられる所にやはり賀びが湧いて来る




さあその欲するものが何か

と言う事ですねぇ




また神様も喜んで下さる様なその欲するもの

欲望 欲求と言うのは何だろうかと




これはもう我欲が薄くなるに従って

別の欲が膨らんで来なければなりませんね




それこそ それこそ教祖様が仰る

私には人を助けたいと言う欲が有ると




人様に助かって頂きたいと言う欲が有ると

この 人様が助かられる 人が助かる 人を助けたい




人に助かってもらいたい

と言うこの欲が愈々強くなって来なければならない




人間の子供で言えば アメ玉が欲しいと言っていたその欲から

いやそれ以上にお金の方が価値が有る




ダイヤモンドの方が

それこそお金は国によって値打ちが違いますが




ダイヤモンドならどこへ持って行っても

それ相当の値打ちが有る訳ですから




1万円札や 10万円 或いは 100万円のお札よりも

ダイヤモンドであったり金である方が値打ちが有る事になりますねぇ




そう言うものを欲する

欲する様になる




私どもの心が やはりそう言うものを欲する心が段々薄くなり そして

その次にもっと神様の欲せられるものに近い欲が愈々募って来る




それは人が助かりさえすればと言う

人を助けたい 人が 人様に助かってもらいたいと言う




そう言う欲が愈々膨らんで来る事だと




そしてそこに 人が助かる 一人でも多くの人が

あの人が助かった この人が助かった




この人がおかげを頂いた あの人がおかげを頂く

と言うそこに喜びを感じる




そう言う人が助かる事への欲と言うものが

愈々育って来なければならない




そしてそこに人が助かる事に喜びを感じるその喜びが愈々膨らんで来る

そう言うお育てを頂かねばならないと言う事ですね




我情我欲が薄くなって来ると

それに伴う喜びも薄くなります




だからその代わりの欲が育って来なければならない

膨らんで来なければならない




それは人を助けたいと言う欲だと

人の助かりを願う欲だと




これは勿論神様もそれを願って居られる訳ですから その賀びは

神様と共に分かち合う賀び と言う事にもなって来るのでしょうね




我欲を無くす と同時に人の助かりを欲する

その心が育って来なければならない 膨らんで来なければならない




そう言うお育てを頂かねばならない

と言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



2021年12月30日木曜日

地の心に和らぐ心が頂け、天の心に賀びの心が頂ける (2021-12-30)

 今日も和賀心学 (2021-12-30)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


おかげは和らぎ賀ぶ和賀心にありと教えて頂く。ではどうしたらその和賀心が頂けるのか。今朝は、地の心即ち土の心を行じる所に和の心即ち和らぐ心が頂け、天の心を行じる所に賀の心即ち賀ぶ心が頂けると。この賀ぶ心とは、我情我欲が満たされる時の喜びではなく、人様の助かりを賀ぶ賀の心だと。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 292頁)


ビデオ: https://youtu.be/_esXBifVHKk

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御理解 第33




お供え物とおかげは

つきものではないぞ




親が子に無条件にお乳を与えるようなものではなかろうか

氏子私共も又 無条件に親神に尽くせるように育たねばならぬ




無条件と無条件の出合い

そこに 天地人一如 の世界が開かれるのです




天 地 人一如と




天地人一如と 神様と私どもとが一つになる

と言うのでしょうか




おかげは和賀心にあり

と教えて頂きます




その和らぎ賀ぶ和賀心

ではどうしたらその和賀心が頂けれるのか




またその和らぐ心と賀ぶ心とは

どう言う心だろうかと思います




今朝頂きますのは 天地日月の心になること肝要なり

と仰せられるその 地の心を行じる時に頂けれるのが和の心だと




そして天の心を行じる時に頂けるのが賀の心 賀びの心だと

何かそう言う風に教えて頂いた様に思うのです




私ども 喜びます

どう言う時に喜ぶか




一番簡単なのは

それこそ自分の願いが叶った時とか




特にとても叶いそうにもない様な願いが叶った時

やっぱり大喜び致しますね




その病気をしている その不治の病だと それが治ったと

例えば 目の見えない人が見える様になった




今まで痛かったのが その痛みが嘘の様に無くなった

喜ばしい事ですねぇ 喜びます




いわゆる私どもの我情我欲と言うのでしょうか

私ども自身に関わる事 その事が思い通りになる




その思いが叶う 欲しているものが与えられる

美味しいものが食べられる 美味しいものを食べたら喜びですねぇ




珍しい美味しいものを 他所様から頂いたりする

これはまた嬉しいものですねぇ




誰からか それこそ好きな人からプレゼントをもらう

クリスマスプレゼントをもらう これなど喜ばしい事だと思いますね




いわゆるそう言う喜びだろうかと




おかげは和賀心にありと言うその和賀心の賀 賀びの心とは

そう言う私どもの思い 願いが叶うと言うのでしょうかねぇ




欲するものが与えられる その時の喜び

勿論欲するものにも その人によって色々有りましょうけれども




大抵は我情我欲から出る所の欲するものですね それが叶えられる

与えられる事への喜び と言うのが殆どではないでしょうかね




しかし今日頂きますのは

そう言ういわゆる自分にまつわる所の願いやら




願いや思いが それこそ思い以上 願い以上におかげを頂いた

その時に喜ぶ様な喜びではなく




昨日の話と通ずる所が有ると思うのですけれども

もう一段進んだ喜びと言うのでしょうかね




もう一段 段階が上がった喜び いわゆる天の心を行じた時

行使した時に頂ける喜びだと言うのですね




それはそれこそ

我が身がおかげを受けて喜ばしいと言う賀びではなく




人様に助かってもらう この事で人様が助かられる

その人の助かりを喜びとする




困った人が助かられる そしてその助かって居られる所を見て

喜びを感じる そう言う賀びだと言うのです




自分が助かる事の喜び 勿論それも喜びですけれども

それ以上に人様が助かられる事に賀びを感じる




そう言う賀びが

和らぎ賀ぶ心の本当の意味での賀ぶ心だと




言わば天の心 与えて与えて止まない天の心

その天の心を行じた時に頂けれる賀び




これがある意味本当の意味での賀びだと




土の心で黙って治める 嫌なものでも土の心で頂く

そこに和らぐ心が頂けれる




そして天の心 与えて与えて止まぬ美わしの天の心を行じる

人様が助かりすれば 人様が助かる事を願っての天の心




そこに人が助かった時に頂けれる

その心が和らぐから 賀びの心へと変わる




その人の助かりを頂いた時に賀ぶ心が頂けれる

その時に頂く心が賀びの心だと 賀の心だと言うのですね




それこそそう言う和らぎ賀ぶ心が頂ける時

頂けた時




天地人一如と言われる様な

神様と一つになった賀びが頂けれるのではないでしょうかね




私の願いが叶う

そこに喜びを感じる喜び




それは神様の御心が反映しての賀びと言うのとは

少し違う様な感じが致しますね




いわゆる何と言いますかねぇ 自分勝手の喜び

悪い表現で言えばそう言う事になるのかもしれません




そこに天の心を行じての賀び

それは人様が助かって下さる事への賀び




それこそ そうなった時に神様も喜んで下さり

その神様の喜びが照り返っての私どもの賀び




と言う事にもなる様に思いますね

どうでも土の心で和らぐ 和賀心の和を頂き




天の心を行じる事によって賀ぶ心 和賀心の賀の心を頂く

そこに初めておかげは和賀心にあり




と言う神様の心に通うた 神様の心が照り返っての

和らぎ賀ぶ和賀心が頂けれると言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



2021年12月29日水曜日

師匠大坪総一郎師は神様の願いと、神様の思いとは違うと (2021-12-29)

 今日も和賀心学 (2021-12-29)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


師匠大坪総一郎師がある研修の時、神様の願いと、神様の思いとは違うと仰って居られた。ある修行生に、神様の思いは分からずとも願いは分かるだろう、とも。願いと思いの違い、私も良くは分からない、宿題だ。しかし神様の思いが分からなければ、もう一段進んだ有難いと言う心は頂けない。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 358頁)


ビデオ: https://youtu.be/w10pRmtKZUM

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御理解 第55




賃を取ってする仕事は 若い時には頼んでもくれるが

年をとっては頼んでくれぬ




信心は 年が寄るほど位がつくものじゃ

信心をすれば一年一年ありがとうなってくる




私 が無くなって行くにしたがって

一年一年有難うなってくる




有難うなってゆかないなら それはおかしいと気づき

我力をとり改まって信心してみよ 必ず有難い心が頂ける




年をとるから位がつくのではない

有難うなること自体が位である




信心はえらくなるとか

かしこうなる稽古でなく有難くなる稽古である




信心は有難くなる稽古である

と師匠は教えて下さいます




どうしたらその有難くなれるか




自分にとって都合の良い事が起こって来る

これがやはり当面有難いと感じる事ではないでしょうかね




ところがその自分にとって都合の悪い事が起こって来た時

中々有難いとは頂けませんね




ではどう言う時に その自分にとって都合の悪い事が

起こって来た時でも有難いと感じれるのか




それは色々有りましょうけれども

それこそあれは 禍福は糾える縄の如くですか




きっとこの次は良い事になると

そう言う先に良い事が来ると言う事を見越すと言うのか




そう言う先を見越して有難くなる

今を忍ぶと言う事かもしれませんねぇ




そう言うここを凌げば 次はもっと道が開ける

と言った様な有難くなる そう言う事も有りましょうけれども




そう言う有難さでは いわゆるいつまで経っても

本当の有難さに触れる事は出来ない様に思いますね




それは自分の身にとって都合が良いと言う事を有難いと感じる

その世界からは抜け出ていないからですね




結局今は苦しいけれども将来は自分にとって都合の良い様になる

その自分に都合の良い様になる事に対して有難いと感じる




その心と言うのでしょうかねぇ

それは変わらないからですね




本当に有難くなる為には その感じる心

感じる所と言うのでしょうかねぇ




何に対して有難いと感じるか

その心が育って行かなければならないと思うのですね




そうでなければ




年をとって位が付くものじゃ 年をとって有難くなるものじゃと言う

そう言う本当の有難さは頂く事が出来ない




どこまでも自分に都合の良い様になる

その事に対してのみ有難いと感じる




そう言う有難さでは本当の有難さに育って行かない

と言う事だと思いますね




では何に対して

有難いと感じる様になるのか




これは一つの宿題かもしれませんけれども

皆さんにも考えて見てもらいたい事なのですが




ある時の師匠の研修テープを頂いて居りましたら

神様の願いと 神様の思いは違うよと仰って居られたのですね




私は今まで神様の願いとか 神様の思いとか

そう言う表現を致しますけれども




殆ど同じ様な感じで

使わせて頂いていたのですけれども




師匠は 神様の願いと 神様の思い

これは微妙に違うと仰って居られたのですね




そしてある修行生の先生の方に

神様の願いは分かるだろう と




その思いは分からなくても 願いは分かるだろう

と言う様な事を仰って居られたのですね




それは恐らくその修行生の先生が頂かれた

お夢であったり その成行きであったり




その中に神様の願いは分かるだろう

と言う事なのですね




果たしてその先生が

神様の思いが分かられたかどうかは分かりません




師匠も 神様の思いは分からずとも

神様の願いは分かるだろう と言う事なのですね




神様の願い 神様の思い

微妙に違うと言う事なのです




そして今日頂きますその 有難くなる稽古だ

どうしたら有難くなれるか




本当の意味においての有難くなる




例えば自分にとって都合の悪い事が起こって来た時でも

将来きっと良い事が有るからと言う有難さではなく




その都合の悪い事でさえも有難いものとして

即 頂ける とすれば




今日それこそ感じさせて頂きますのは

そこに神様の思いが分かると言う事ではないでしょうかね




なる程辛い苦しい けれども神様の思いが分かる

その神様の思いに対して有難くなる




そう言う有難さではないでしょうかね




神様の思いが有難い

神様の思いに感謝の心が湧いて来る 有難い心が湧いて来る




その神様の思いが分かる 感じれて

そこに有難さを感じれれる様になった時




有難くなる稽古と言うその稽古が

一段進んだ時ではないでしょうかね




自分に都合の良い事が起こる

あるいは将来起こるかもしれない




そこだけに有難さを感じる有難さから

もう一段進んで 神様の思いが分かる




その神様の思いが有難い

と言う信心に進ませて頂かなければ




それこそ 有難くなる稽古と言うその稽古が

堂々廻りで終わってしまう




もう一段進ませて頂かなければならない

と言う事だと思いますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます