2021年10月24日日曜日

師匠に喜んで頂きたいと言う心が育つこと (2021-10-24)

 今日も和賀心学 (2021-10-24)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


ある事が中々成就しないので神様にお伺いしていたら、リンゴが皮だけで中をくり抜いた様な中身の無いリンゴを御心眼に頂いた。中身が無いと言う事になる。ではどうしたらその内容を作る事が出来るのだろうかと。心に、師匠に喜んで頂きたい、その為におかげを頂かせて下さい、と言う心が育つ事だと。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 364頁)


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合掌

中原博信

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御理解第57




金の杖をつけば曲がる 竹や木は折れる

神を杖につけば楽じゃ




今の社会は闇の世です

今ほど真の光を求められている時はありません




神を杖につけば楽じゃ

と教祖は教えておられますが杖に出来る神がすくない




巷に氾濫している神々では

杖にも光にもなりません




宗教とは読んで字の如く 宇宙 天地の親神様の意 が

示すことを教える宗教でなければ真実 光にも杖にもなりません




親神様 天地の親神様が教えて下さる事を

示して下さる事を教える宗教だと




ではその天地の親神様が何を示して下さるのか

と言う事になりますねぇ




何を示して居られるのか 私どもがどうあったら良いのか

と言う事だと思います




昨夜の月例祭の時に ある事が中々成就致しませんから

これはどう言う事でしょうかと




何が足りないのでしょうかと

どう言う風になったら成就する事になるのでしょうかと




言う様な事を お願いとも お伺いともして居りましたら

御心眼にリンゴですね あのリンゴの皮は有るのですけれども




赤い丸いリンゴの皮はそのままなのですけれども

中がくり抜かれていると言うのでしょうか 中身が無いのです




皮だけのリンゴの様子を頂きました




言わばリンゴの皮はリンゴらしくしているけれども

そのリンゴの中身が無いと




食べ尽くしたのか ほじくり出したのか

皮だけな訳ですね




確かに側から見る 遠目に見ればリンゴだなと見えるのですけれども

それこそ近付いて実際その食べてみようとすると中身が無い訳です




ああこれは私の中にいわゆる 神様が 中身が無いと

まぁ周りは立派にリンゴの様にしているけれども その内容が無い




中身が無い これはまた信心の中身が無いと言う事でも

有りましょうけれども そうご指摘下さった様な感じが致しました




ではどうやったらその内容を詰めて行くと言うのでしょうか

中身を作る事が出来るのだろうかと思いますね




その事をやはりずっと今朝の心中祈念の時にも

どうやったらそのリンゴの皮だけではない




その中身を詰めて行くと言うのでしょうか

作って行く事が出来るのだろうか




その内容をどうしたら充実させると言うのでしょうかねぇ

事が出来るのだろうかと思うて居りましたら




フト師匠の御理解を思い出させて頂きました

それは師匠が未だ終戦間際の 引き上げ間際の頃でしょうか




食べる物も無い 着る物も無いと言う時代

その食べる物も無いと言う時代に師匠が願われた事は




親様 その両親が食べる物も無い




どうぞもし両親が亡くなったならば

もう元の木阿弥になって構いませんから




その両親が生きて居る間は

どうぞ両親に十分なご飯が食べられる様におかげを頂かせて下さいと




そうお願いをしていたと言う事を御理解下さった事が有ります

その事を思い出させて頂いたのですね




師匠は自らが食べる為に

どうぞおかげを授けて下さいと願われたのではない




親に食べさせる為に 親に喜んで頂く為に

親がそれこそ不自由なく食べる事が出来る様に




もしその親が居なくなったら もうまた元の生活

いわゆる食うや食わずの生活に戻っても構いませんから




どうぞ親が居る間だけでも親に十分に食べさせて下さい

そう言うおかげを頂かせて下さいと願われたと




ここにヒントが有る様に思わせて頂きました

また思わせて頂きましたのは




ある師匠が 誕生日の時に

修行生が出し物を致しました




私が未だ修行に入る前でしたけれども

その御理解が ビデオが残って居りました




それを聴かせて頂きますと




その師匠に喜んでもらいたい 親先生に喜んでもらいたい

と言うその修行生の一念と言うのでしょうか 一心と言うのでしょうか




それがそれこそプロの役者をも見紛う程しの出来に出来ている

奇跡的な出来栄えになっていると




その 親先生に喜んで頂きたいと言うその一念 一心が

そこに神様が御働き下さったと言う事になるのでしょうね




その 2つの事を思い出させて頂いたのです

そこに共通するものは 自分がおかげを頂きたいから願うとか




自分を喜ばせたいからおかげを頂きたい と言うのではなく

親様ですね 人様 人様に喜んでもらいたいから




まぁそれが一番手身近なのが親であり

親先生 師匠であると言う事でしょうけれども




人様に喜んでもらいたい その為におかげを頂かせて下さい

と言うそう言う心根と言うのでしょうか




そう言う心持ちに神様が感じて下さるのだなと

言う事なのですね




ですから自分が喜びたいから

自分を喜ばせる為におかげを下さいではなく




師匠に喜んで頂く 親に喜んで頂く事の為に

こう言うおかげを授けて下さい こう言うおかげを下さい




と言うそう言う心が育って来ると言うのでしょうかね

それがその中身の無い皮だけのリンゴの中身を詰めて行く事に




中身を作って行く事になるのではなかろうかと

今朝は思わせられています




確かにそうですねぇ

自分さえよければ良いとか




自分を喜ばせる為にと言う事のぶつかり合いが

結局争い事にも発展するのでしょうからね




人様が喜ばれる様に 人様に喜んで頂かれる様にと言う思いでの

一つ一つであるならば 争いも無くなると言う事になるのでしょうね




神様がやっぱりどうでも

これは天の心と言うのでしょうかねぇ




人様に喜んでもらいたい と言う心を育ててくれよと

言う事ではないかと思いますね




リンゴの 皮だけのリンゴの中身を育てて行く それはやっぱり

その 天の心を育てて行くと言う事なのかもしれませんね




その先ず とっかかりとしては 親が居るなら親に喜んでもらいたい

師匠なら師匠親先生に喜んでもらいたい




その為にこう言うおかげを頂きたい

その親に喜んでもらう為のおかげ




師匠に喜んでもらう為のおかげを願う信心へと

育って行かねばならないと思わせて頂きました




どうぞよろしく致します




ありがとうございます



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