今日も和賀心学 (2021-10-05)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
人が大概信心に救いを求めるのは、自分の思い通り願い通りに事が運ばない時、或いは運びそうにない時、自分の思い通りになるようにと願うのであろう。もし全てが思い通りに運ぶなら、神も要らない信心も要らないとなるに違いない。右と願って左となる中にも助かりの心を頂けるのが真の信心と言えよう。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 355頁)
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合掌
中原博信
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御理解第54節
徳のないうちは心配する
神徳を受ければ心配はない
損得を任せ 生死までも神さま任せになれた時の状態が
心配はない の時である
神徳を受けるということは
神を信じ神に信じられる事である
私共の場合あまりに心配なことが多い
そこに信心の精進が求められるのである
不思議に不安から安心の世界が開かれ
闇の世界から光明の世界に移り住むことが出来る
既に神徳の世界である
神様任せになれた時と
その時が心配はないの時であると
心配はない 心配が無い またの言葉で言えば
それは助かっている状態ではないでしょうかねぇ
あれが心配だ これが心配だと言う時には
やはり心が助かっていない時だと思いますね
私どもが信心をさせて頂く
それはやはり 信心による助かりを求める 救いを求める
困った時の神頼みと申されます様に
困った事が起こる 言わば助けてもらいたい事が起こる訳ですね
また助けてもらいたい事が有る
その助かりを求める 救いを求める
何故助けてもらいたいか 何故救ってもらいたいか
それは自分の思い通りにならない事が有るからですね
右に行きたいと思うけれども右に行けない
あの人に ああしてもらいたいと思うけれども ああしてくれない
言わば自分が思い通りに事が運ばない
もし自分の思い通りに あああれば良い こうあれば良い
ああしたい こうしたい あれが欲しい これが欲しい
あの人がああしてくれれば こうしてくれればと言う
その自分の思い通り 願い通りに事が運ぶならば
助けは要らない訳ですね
また 心が安らいで居れると言うのか
助かって居ると言うのか
全て自分の思い通りに事が運ぶならば
ある意味助かっていると言えるのかもしれませんね
それ以上の救いを求める必要は無い訳ですから
ところがそこに自分の思い通りに行かない事が有る 出て来る
そこにそれを自分の思い通りに行かせようとする
ところが自分の力ではどうにもならない
誰彼に頼む 助けを求めると言う事になりますね
それで自分の思い通りに行かない事が有るから
それを自分の思い通りに行く様に 神様に助けを求める 救いを求める
と言う事になるのではないでしょうかね
ですから助かると言う事は ある意味自分の思い通り
願い通りになる事だとも言えるかもしれませんね
全てが自分の思い通り 願い通りになるならば
心配は有りませんね
自分の思い通りにならないかもしれない
ああなるかもしれない こうなるかもしれない
それが自分の願い通り 思い通りにならないかもしれない
そこに心配不安が起きて来るのではないでしょうかね
一切が自分の願い通り 思い通りに事が運ぶ
と言う確信が持てたならば 心配は有りませんね
その自分の思い通りになる事
それが人の助かり一つだと言う事ですね
その思い通り 願い通りになれば救われる
救われた状態 助かった状態と言えるのではないでしょうかね
そして人は大概において
そう言う助かりを求めるものだと
自分の願い通りになる 思い通りになる
それで ああ助かった 救われたと言う
その状態を
大概は求めているのではないでしょうかね
しかし中々自分の思い通り
願い通りになる事は有りませんねぇ
神様にお願いして 自分の思い通りに事が運ぶ様になる
お繰り合わせを頂くと言う事でしょうかね
その神様からお繰り合わせを頂く
無理をしてでも自分の願いを叶えてもらう
そこに助かりを感じる と言う
そう言う意味においての助かりを感じる世界
これでは人間の本当の助かり
真実の助かりではないと言う事ですね
自分の思い通りになるから助かって居る
これは初期の意味での 自分の思い通りですね
いわゆる我情我欲 私利私欲の
思い通りと言う事かもしれませんね
人間が真実助かる このお道による真の助かりとは
思い通りに事が運ぶ事による助かりも有りましょうけれども
そこからもう一歩先に進んだ
思い通りにならない事の中にも助かりを感じる
願い通りにならない事の中にも
助かった心を頂けれる
そう言う世界に住む事だと
それが本当の助かりだと言う事になりますね
右に願って右になる そこに助かりを感じる
その世界から更にもう一歩進んで
右に願った事が左になる
その右に願った事が左になる事の中にも助かりを感じる世界
そうなった時に初めて どう言う中にあっても助かって居れれる
真の助かりの世界に住む事が出来ると言う事になりますね
大抵は 自分の願い通りに事が運ぶ時に
助かりを感じるものですけれども
その自分の願い通りに事が運ぶと言う事は
中々少ないですね
たまには神様が優しく
それこそ我儘を聞いて下さる事も有りますけれども
神様の願いは
例え右と願って左となる様な事の中にも助かりを感じる
助かって居れれる心を育てて欲しい
と言うのが
神様の本当の御心だと思いますね
ではどうしたら その自分の思い通り
願い通りに事が運ばない中においても
助かりの心を頂く事が出来るか
と言う事になります
そこの所を師匠が
合楽理念をもって説かれてあると思いますね
自分の願い通り 思い通りにならない時に助かる
その救いを 助かりの心を頂く
それはやはり第一は土の心と言う事でしょうね
土の心を身に着ける
そしてそれこそざっくり言えば
自らの心を育てる 魂を磨く清めると言う所に焦点を定める
そこに焦点が定まらないから
自分の思い通りになる事だけに助かりを感じる
もし魂を清める事に焦点が定まったならば
自分の思い通りにならない事の中にも
神愛を感じ 助かりを感じる事が出来る
どうでも私どもが 思い通りになる事に助かりを感じる
その世界から脱却して
思い通りにならない事の中にも助かりを感じる
そう言う世界を目指さなければならないと言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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