今日も和賀心学 (2021-10-13)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
合楽理念は一切を御徳にして行く道を教えると言われ、いわゆる御利益信心ではない御神徳を目指しての信心を教えられる。ところが師匠大坪総一郎師はある時、私は御神徳を頂こうと言う信心はした事が無いと仰った。師匠の信心はどこまでもピュアーな信心であられたのだと思う、正に木鶏であられたのだと思う。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 112頁)
ビデオ: https://youtu.be/KoNakL89Hcw
音声のみ(データ節約): http://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2021-audio/10-audio/Wagakokology_Labo-jp-2021-10-13.mp3
合掌
中原博信
(ブログ): https://wagakokology.blogspot.com
(Blog-en): https://wagakokology-en.blogspot.com
(ホームページ): http://www.gorikai.wagakokoronet.org/
(ポッドキャスト): https://anchor.fm/wagakokology-jp
(初代/ポッドキャスト番組名): 大坪総一郎師御理解集
(初代/ポッドキャスト): https://anchor.fm/wagakokorogaku
(初代/ポッドキャスト番組名): 大坪総一郎師御理解集 第2集
(初代/ポッドキャスト): https://anchor.fm/wagakokorogaku-2
(スカイプ会議リンク): https://join.skype.com/ZrgSr5pB6gvS
-------------------------------------------------------
御神訓
わが心でわが身を生かすこともあり殺すこともあり
力持ちが 力にまかせて
人をきずつけたり 殺したりする
自分の力を
世の為 人の為に 使う人もある
世の為 人の為に 自分の力を使う人もあると
私どもが力を頂きたいと思います
神様のお役に立つ為に
その役に立つ力を頂きたいと思います
そしてまた師匠が いわゆるご利益を頂く信心から
御神徳を目指しての信心をしなさいと教えて下さいます
徳を頂くと言う様な事を申されます
また百人一徳者と言う様な事も申されます
そして御徳を頂く信心 それこそある先生は
このお道は一切をおかげにして行く道だと説かれたと
合楽ては一切を御徳にして行く道を説く
とも師匠は教えて居られます
ですから御神徳 それは神様の御信用
神様から信用してもらう
その神様の御信用を頂く いわゆる御神徳を頂く為の信心
と言う事を強調される訳ですけれども
ところが一寸ここからは異論が出るかもしれませんけれども
師匠がある時 こう言う事をお聴きしました
それは 私は御神徳を頂きたいとか 頂こうと思って
その信心をしたと言う事は無いと
それこそ私どもには御神徳を頂きなさいとか
御神徳を頂く為の信心をしなさいとか教えて下さいますけれども
師匠自身は
御神徳を頂く為にと言う信心はしていないと仰られたのですね
一寸意外な感じが致しました でも今はそれが本当だろうなと
師匠が仰られた事が本当だろうなと思います
それは例えばですねぇ 誰それに信用してもらいたいから
誰それに良くすると言うのでしょうかねぇ
その何故御神徳を頂きたいのか
例えば おかげよりか御神徳の方が遥かに値打ちが有るから
と言う表現も有りますね
それこそ飴玉よりかダイヤモンドの方が良いと
ダイヤモンドよりかお金の方が
もっと自由性が有ると言うのでしょうか
お金さえあれば欲しい物が何でも手に入る
と言った様なその値打ちが違うと言うのでしょうかね
言わばおかげ信心よりか 御神徳の方が値打ちが有るから
御神徳を頂く為の信心をすると
しかし聞こえは良い様に思えますけれども
結局私どもの心の中の本を正してみれば
おかげ信心も御神徳信心も
言ってみれば五十歩百歩の心根ですね
それでおかげを頂いて まぁ満足しようと言うのか
御神徳を頂くともっとおかげよりかもっと良いものが頂けれる
そう言う例えば 今まで 50キロ持ててたものが
もっと力を頂くと 100キロのものが持てる様になる
だから力を頂こう
御神徳を頂こう
とそれは例えて言えば 百万円下さいと百万円欲しいと思っていたのが
いや一千万円欲しい いや 1億円欲しい
もっと値打ちのあるものが欲しい
と言うのと余り変わりませんね
心根の上で余り変わらないと言う訳です
ただこっちの方がもっと値打ちが有るからこっちの方が欲しいと言う
その根底にあるものは やはり私利私欲が根底に有りますね
ただ形が少し変わっただけの事であって
その御神徳が欲しいと言うその裏には
私利私欲が有ると言う事ですね
ですからそう言う私利私欲からの御神徳が頂きたいと言う
その為の信心では 神様に神様の御心に通うとは思えませんね
それでは本当の御神徳と言うものは
頂けないのかもしれませんね
あの人に信用してもらえれる様にこう言う事をする
とすれば それは信用が欲しいからこうしている
いわゆる心の中に 何と言いましょうかねぇ
あれは何と言いますかねぇ その裏が有ると言うのでしょうかね
その こうして欲しいから ああするとか
ああして欲しいから こうすると言った様な条件がそこに有る訳ですね
無条件ではない訳です 御神徳が頂きたいからこうするのだ
と言うその条件が付いている訳ですから
これは真の心とは言い難いと思いますね
師匠の場合はもう こうすれば御神徳が頂けれるからとか
そう言うものはもう無かったと言う事ですね
昨日のお話ではありませんけれども
いわゆるもう木鶏であったと言う事です
おそらくそうであって初めて
本当の意味においての御神徳が頂けれるのかもしれませんね
御徳を頂きたい 御徳を頂きたい 御徳を頂く為にこうする
ああすると言う間は 本当は御徳は頂けないのかもしれません
ただそこを目指す それは一過程において
信心の一つの過程において
おかげを目指す信心から御徳を目指す信心と言うのは
一つの過程としてあって然るべきですけれども
そこで止まっては
又ならないと言う訳ですね
もう本当を言うと もう御徳も要らない 何にも要らない
ただただ神様のお役に立ちさえすれば それで良い
いわゆるご褒美も何も要らないと言う世界ですね
そう言う本当を言うと もう御神徳も何も要らない
ただただ信心をさせて頂くのだ
ただただ神様のお役に立たせて頂きたい
神様の願いが成就する為のお役に立たせて頂きたい
と言うその一心 そこの裏には何の心も無い
そう言う心の状態
そう言う心での信心と言うのでしょうかね
そう言うものがやはり究極の所
そこに行き着かなければならないと言う感じが致しますね
木鶏ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
0 件のコメント:
コメントを投稿