2021年10月13日水曜日

師匠大坪総一郎師は信心の木鶏であられた (2021-10-13)

 今日も和賀心学 (2021-10-13)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


合楽理念は一切を御徳にして行く道を教えると言われ、いわゆる御利益信心ではない御神徳を目指しての信心を教えられる。ところが師匠大坪総一郎師はある時、私は御神徳を頂こうと言う信心はした事が無いと仰った。師匠の信心はどこまでもピュアーな信心であられたのだと思う、正に木鶏であられたのだと思う。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 112頁)


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合掌

中原博信

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御神訓




わが心でわが身を生かすこともあり殺すこともあり




力持ちが 力にまかせて

人をきずつけたり 殺したりする




自分の力を

世の為 人の為に 使う人もある




世の為 人の為に 自分の力を使う人もあると

私どもが力を頂きたいと思います




神様のお役に立つ為に

その役に立つ力を頂きたいと思います




そしてまた師匠が いわゆるご利益を頂く信心から

御神徳を目指しての信心をしなさいと教えて下さいます




徳を頂くと言う様な事を申されます

また百人一徳者と言う様な事も申されます




そして御徳を頂く信心 それこそある先生は

このお道は一切をおかげにして行く道だと説かれたと




合楽ては一切を御徳にして行く道を説く

とも師匠は教えて居られます




ですから御神徳 それは神様の御信用

神様から信用してもらう




その神様の御信用を頂く いわゆる御神徳を頂く為の信心

と言う事を強調される訳ですけれども




ところが一寸ここからは異論が出るかもしれませんけれども

師匠がある時 こう言う事をお聴きしました




それは 私は御神徳を頂きたいとか 頂こうと思って

その信心をしたと言う事は無いと




それこそ私どもには御神徳を頂きなさいとか

御神徳を頂く為の信心をしなさいとか教えて下さいますけれども




師匠自身は

御神徳を頂く為にと言う信心はしていないと仰られたのですね




一寸意外な感じが致しました でも今はそれが本当だろうなと

師匠が仰られた事が本当だろうなと思います




それは例えばですねぇ 誰それに信用してもらいたいから

誰それに良くすると言うのでしょうかねぇ




その何故御神徳を頂きたいのか

例えば おかげよりか御神徳の方が遥かに値打ちが有るから




と言う表現も有りますね

それこそ飴玉よりかダイヤモンドの方が良いと




ダイヤモンドよりかお金の方が

もっと自由性が有ると言うのでしょうか




お金さえあれば欲しい物が何でも手に入る

と言った様なその値打ちが違うと言うのでしょうかね




言わばおかげ信心よりか 御神徳の方が値打ちが有るから

御神徳を頂く為の信心をすると




しかし聞こえは良い様に思えますけれども

結局私どもの心の中の本を正してみれば




おかげ信心も御神徳信心も

言ってみれば五十歩百歩の心根ですね




それでおかげを頂いて まぁ満足しようと言うのか

御神徳を頂くともっとおかげよりかもっと良いものが頂けれる




そう言う例えば 今まで 50キロ持ててたものが

もっと力を頂くと 100キロのものが持てる様になる




だから力を頂こう

御神徳を頂こう




とそれは例えて言えば 百万円下さいと百万円欲しいと思っていたのが

いや一千万円欲しい いや 1億円欲しい




もっと値打ちのあるものが欲しい

と言うのと余り変わりませんね




心根の上で余り変わらないと言う訳です

ただこっちの方がもっと値打ちが有るからこっちの方が欲しいと言う




その根底にあるものは やはり私利私欲が根底に有りますね

ただ形が少し変わっただけの事であって




その御神徳が欲しいと言うその裏には

私利私欲が有ると言う事ですね




ですからそう言う私利私欲からの御神徳が頂きたいと言う

その為の信心では 神様に神様の御心に通うとは思えませんね




それでは本当の御神徳と言うものは

頂けないのかもしれませんね




あの人に信用してもらえれる様にこう言う事をする

とすれば それは信用が欲しいからこうしている




いわゆる心の中に 何と言いましょうかねぇ

あれは何と言いますかねぇ その裏が有ると言うのでしょうかね




その こうして欲しいから ああするとか

ああして欲しいから こうすると言った様な条件がそこに有る訳ですね




無条件ではない訳です 御神徳が頂きたいからこうするのだ

と言うその条件が付いている訳ですから




これは真の心とは言い難いと思いますね




師匠の場合はもう こうすれば御神徳が頂けれるからとか

そう言うものはもう無かったと言う事ですね




昨日のお話ではありませんけれども

いわゆるもう木鶏であったと言う事です




おそらくそうであって初めて

本当の意味においての御神徳が頂けれるのかもしれませんね




御徳を頂きたい 御徳を頂きたい 御徳を頂く為にこうする

ああすると言う間は 本当は御徳は頂けないのかもしれません




ただそこを目指す それは一過程において

信心の一つの過程において




おかげを目指す信心から御徳を目指す信心と言うのは

一つの過程としてあって然るべきですけれども




そこで止まっては

又ならないと言う訳ですね




もう本当を言うと もう御徳も要らない 何にも要らない

ただただ神様のお役に立ちさえすれば それで良い




いわゆるご褒美も何も要らないと言う世界ですね

そう言う本当を言うと もう御神徳も何も要らない




ただただ信心をさせて頂くのだ

ただただ神様のお役に立たせて頂きたい




神様の願いが成就する為のお役に立たせて頂きたい

と言うその一心 そこの裏には何の心も無い




そう言う心の状態

そう言う心での信心と言うのでしょうかね




そう言うものがやはり究極の所

そこに行き着かなければならないと言う感じが致しますね




木鶏ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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